身体音楽

昭和の伝説・天才歌姫「美空ひばり」の歌唱力と死因について

 

1989年、2人の有名な日本人が亡くなりました。1人は昭和天皇、そしてもう一人は演歌界の巨人・美空ひばりです。美空ひばりが亡くなってもう四半世紀が経ちました。映画俳優の石原裕次郎とともに、昭和のスーパースターとして多くの人々に愛され続けた美空ひばり。

彼女は1937年に生まれ、1989年、昭和が終わりを遂げた年とともに52歳の若さでこの世を去っていきました。2017年は美空ひばり生誕80年ということで様々なイベントが催されています。AKB48やきゃりーぱみゅぱみゅなど、現代の人気者たちが美空ひばりの名曲をカバーしたりするようです。

というわけで、美空ひばりの経歴・エピソード・名曲・死因などについてまとめてみました。

 

 

 

 

美空ひばり、早すぎた死

1987年、長年の心労や肉体的無理が祟り、慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症で緊急入院した美空ひばり。。。心配するファン。。。

 

それでも、なんとか一命を取りとめた美空ひばりは1988年、東京ドームのこけら落しとなる「不死鳥コンサート」を実施します。

 

 

♪ 美空ひばり メドレー ♪

 

 

 

瀕死の状態であったにも関わらず全39曲を歌い切ったその鬼気迫る姿はまさに不死鳥のようで…「伝説のコンサート」として、彼女の歌声とその勇姿は今も多くの人々の胸に深く刻み込まれています。

しかしながら、その後も病魔に蝕まれ続けた美空ひばりは、1989年3月23日、ついに、特発性間質性肺炎で逝去してしまったのです。ただ、この病名はあくまでも結果であり、美空ひばりは自らの体を完全燃焼させてしまったと言えるでしょう。

 

没後、美空ひばりには女性歌手として初めて国民栄誉賞が授与されました。ちなみに、美空ひばりが亡くなった50代前半と言えば、ダウンタウンの松本人志や中森明菜、X JAPANのトシ、小泉今日子、山口智子、阿部寛、高島礼子などなど、仕事人として一番脂の乗り切っている年齢。。。(2017年現在)

美空ひばりがいかに若くして亡くなったか、また、いかに偉大な存在であったかが分かるのではないでしょうか。

 

 

 

 

養子・加藤和也の愛

美空ひばりが活躍していた1950〜60年代は混沌とした時代でした。テレビの登場でメディアの世界が革新的な進歩を遂げる反面、芸能界はいわゆる反社会集団に牛耳られ、トップスターであった美空ひばりもまた、山口組三代目田岡一雄の庇護の元、芸能活動をしていたのです。

ちなみに、美空ひばりには2人の弟がいて、うち一人は山口組傘下の暴力団員。1970年代に入ると、美空ひばりの人気に陰りが出てきただけでなく、最愛の母が亡くなり、さんざん面倒をかけられた弟たちも相次いで亡くなってしまいます。

 

 

独り取り残された美空ひばりは、弟・加藤哲也の一人息子・加藤和也を養子にし、実の母以上に溺愛します。その後、闘病も虚しく美空ひばりがこの世を去ったとき、加藤和也はまだ18歳。美空ひばりというあまりに大きな存在の前に、その死の直前まで、彼の素行は芳しくありませんでした。

ただ、その後は改心し、美空ひばりの死後から現在に至るまで、加藤和也は株式会社ひばりプロダクション・藤和エンタープライズ代表取締役社長として、母である美空ひばりという偉大な昭和の遺産を守り続けています。

 

 

 

 

今も愛され続けている名曲「川の流れのように」

1940年代後半、子役として活動し始めた美空ひばりは、戦後日本の生きる希望の象徴として、日本人の琴線に触れ、大人気となります。

実は、多くの芸能人がそうであるように、美空ひばりもまた、民族的には韓国人でした。ただ、そんなことは一切関係なく、8歳頃から歌い出し、12歳の頃にはもう立派な歌手として、日本国民のアイドル的存在となったのです。

 

その後、美空ひばり最後の一曲とも言えるこの曲は、今も多くの人々の心に希望の光を灯し続けています。

 

 

♪ 川の流れのように ♪   (最後の映像)

 

 

 

戦後の日本を歌手として、映画スターとして盛り上げてくれた美空ひばり。そんな彼女の歌声は海外でも高く評価されています。その証として、彼女の名曲は多くの海外アーティストやオーケストラによってよく演奏されています。

 

 

 

♪ 川の流れのように ♪  (English version)

 

 

 

 

 

天才少女、美空ひばり

1937年、加藤和枝として横浜で生まれ育った美空ひばりは、1943年、第二次世界大戦送別会で父に歌を歌って聞かせた時に「お前には歌の才能がある」と認められました。「この才能を何とか活かしてあげないと!」そう考えた父は、娘のために大金に投資し、娘を歌手デビューさせます。

 

そして1945年、加藤和枝は8歳の時に横浜のコンサート・ホールでデビューしました。これを機に、彼女は天才少女として日本国中にその名を馳せていくのです。

 

 

♪ 東京キッド ♪   (1950年)

 

 

 

母親の提案で「美空ひばり」となった和枝。記録的には、彼女の芸歴は12歳のとき (1949年) から始まっています。東京キッドでは孤児を演じ、その演技と歌唱力で人々を熱狂させます。

そんな彼女は1957年、熱心な女性ファンによって顔に塩酸をかけられてしまいますが、幸いにも、傷は大事には至りませんでした。1962年には俳優小林旭と結婚するも、わずか2年で離婚…

 

その後も歌手人生は順風満帆だった美空ひばりですが、黒い影を持つ弟の存在のため、長らくの間、NHK紅白歌合戦には出場できませんでした。

 

 

 

 

 

ネイティヴも驚く珠玉のジャズスタンダード☆

美空ひばりが活躍していた昭和の時代は、歌手の世界は特に年功序列が厳しく、楽屋などでは陰湿なイジメが凄かったようです。1971年の紅白歌合戦では、昭和の大歌手でタレントとしても人気絶頂だった水前寺清子が司会を務めていました。

この時、大トリであった美空ひばりの曲紹介はなぜか拒否され。。。後の謝罪会見では、「私も歌謡界の女王と呼ばれたいものです」と、芸能界でのむやみな美空ひばり礼賛を暗に批判したそうです。

 

若き日の美空ひばり

 

 

 

それはさておき、

美空ひばりが歌手として「天才」だったことは間違いありません。譜面を読むことはできませんでしたが、メロディを一度聞いただけでその通りに歌うことができたそうです。ジャズのスタンダード (英語) だって完璧に歌いこなしました。

美空ひばりのジャズの歌声を聴いた外国人プロモーターは、「この歌手は (やや黒人なまりがあるものの)、英語の発音が正確でジャズの心を充分表現している。この歌手を手配してくれないか」と言ったそうです。

 

 

 

♪ Stardust ♪

 

 

 

 

 

美空ひばりが「伝説の歌姫」となった理由

美空ひばりが「伝説の歌姫」と言われるようになった理由はいくつもあるでしょうが、その1つには、膨大な音源や動画の存在があるかもしれません。「昭和の歌姫・美空ひばり伝説」を振り返り、幾度となくお茶の間に貴重映像が流し出されることによって、その伝説は本物となり、人々の記憶にしっかりと刻み込まれていったのです。

 

そしてもう1つ、美空ひばりが「伝説の歌姫」と呼ばれるようになった理由は、長い低迷期を経て、1989年に最後に出されたシングル曲「川の流れのように」が150万枚のミリオンヒットを記録したことにあるでしょう。

 

 

この曲は、おニャン子クラブやAKB48を世に出した秋元康の企画による「不死鳥パートII」というアルバムの中から、美空ひばり本人がシングルカットを強く望んだ曲です。

美空ひばりは死期を前に、この曲にこれまでの自分の歌手人生全てが表されていることを強く感じ取っていたに違いありません。

 

 


 
「島倉千代子さんの波乱万丈人生まとめ」はこちら
 

 

 

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