エンタメ

「ゲームの父」横井軍平の教え

 

「世界で一つしかない、世界で初めてというモノをつくるのが私の哲学です。それこそものづくりの原点なんです。」

 

こう言い切っていた横井軍平さんは、まさにゲーム界において「神」のような存在です。なぜなら、もし横井さんがいなかったらあのゲームボーイが発明されていないわけですから。

任天堂という会社を世界に名だたる企業に押し上げたのも横井さんの存在があればこそ、なのです。それくらい世界に影響を与えた偉人「横井軍平」さんは大学を卒業後、名もなき小っぽけなカードゲーム会社「任天堂」に就職 (1965年)。

 

しかし入社してすぐ、横井さんは「ウルトラハンド」という玩具を作り大ヒット!(1966年)

 

 

一説には、この大ヒットが任天堂の倒産を救った…とも言われています。さらに横井さんは、ピッチングマシーンや現在のお掃除ロボットの走りともいうべきお掃除玩具なども開発。

そんな横井さんはある日新幹線に乗っていてとんでもないヒントを得ることになるのです。それは、電卓で遊んでいる人物を見たことがきっかけでした。

 

「あんな感じで、誰もが暇つぶしで遊べるようなものを作りたい!」

そして完成したのが「ゲーム & ウオッチ」だったのです。(1980年)

 

 

「ゲーム & ウオッチ」は、5年早く出していたら10万円の機械になっていたそうです。量産効果でどんどん安くなて、3,800円で売ることができ、それで大ヒットしたのです。これが有名な「枯れた技術の水平思考」というものです。

一般的に、技術者は自分の技術をひけらかしたいもの。だからこそ、最先端の技術にこだわって「売れない高い商品」ができてしまうわけです。

 

横井さんの場合は違います。値段が下がるまで…待つ。つまり、その技術が枯れるのを待つわけです。枯れた技術を水平に考え。。。

(垂直に考えたら「電卓」のまま終わっていたところを水平に考えるのです)

 

その結果、電卓が「ゲーム & ウオッチ」に発展してみたり、十字キーが発明されたり。。。

 

 

その後の任天堂は波に乗り、大ヒット家庭用ゲーム機「ファミコン」 ( ファミリーコンピュータ) を発売!こうして、任天堂は日本国内のみならず、世界的にも有名な会社となっていったのです。

 

 

 

しかしながら、、、

 

1996年に任天堂を離れ自身の会社を設立した翌年 (1997年)、横井さんは交通事故により亡くなってしまいました (享年 56)。

 

(1989年に発売されたゲームボーイ)

 

 

「例えば、モノクロとカラーのどっちがいいとなったら、誰でもカラーがいいと言うに決まっている。しかし、それを本当にユーザーが求めているのか。そのデメリットは電池が早くなくなって、製品価格が高くなって…と説明できる人は少ない。」

 

「ある時、リハビリなどの世界にゲームの要素を入れると非常にいいという話が出たんです。リハビリというのは、毎日同じことの繰り返しであまりみんなやりたがらないんですが、それにゲーム性を盛り込むことでリハビリがものすごく進む。やるなと言ってもやってしまう。」

 

このように、遊びと何かを結びつけることをいつも考えていた横井さんは、既存の概念にとらわれることのない天才でした。

 

ゲーム産業はここ20〜30年であまりにも大きく変わってしまいました。しかしながら、多くの人たちは今も横井軍平さんのことをゲームデザイナーとして尊敬し続けています。

なぜなら、彼の発明があればこそ、世界中の人々がゲームを楽しむことができているわけなのですから😌

 

 

☆ Related Post ☆