サッカー元日本代表の三浦知良 (キング・カズ) 選手は50代となった今も、バリバリの現役選手としてサッカーを楽しんでいます。そんな彼はワールドカップ予選で総得点27を記録するも、本大会に出場したことは一度もありません。
それでも、「ハツラツとしたプレイスタイル」と「アジア人初のセリエAプレーヤー」として深く尊敬され、厚く慕われています。先駆者 (パイオニア) として、日本サッカー界に大きく貢献してきているのです。
(2019年時点で 52歳の) ストライカーにとって、簡単なことは何一つありません。それでも、「サッカーに対する情熱は18歳でプロになってから何も変わっていない!」「逆に増しているくらいだ。」と熱く語ってくれています。
プロフィール ☆
《続きを読む》
◉ 本名:三浦知良 (みうら かずよし)
◉ 生年月日 : 1967年2月26日
◉ 出身:静岡県
◉ 身長 : 177cm
◉ ポジション : FW
◉ 妻:タレント・モデルの三浦りさ子さん
◉ 子供:男の子2人 (1997年生まれと2001年生まれ)
《これまでの所属クラブ一覧》
【ブラジル】
◉ サントス (1986)
◉ パルメイラス (1986)
◉ マツバラ (1986)
◉ CRB (1987)
◉ キンゼ・デ・ジャウー (1988)
◉ コリチーバ (1989)
◉ サントス (1990)
【日本】
◉ ヴェルディ川崎 (1990 – 1998)
【ヨーロッパ】
◉ ジェノア (ジェノバ) (Italy : 1994 – 1995 loan)
◉ NKディナモ・ザグレブ (Croatia : 1999)
【日本】
◉ 京都パープルサンガ (1999 – 2000)
◉ ヴィッセル神戸 (2001 – 2005)
◉ 横浜 FC (2005 -)
◉ シドニー FC (Australia : 2005 loan)
◉ 横浜 FC (2006 〜)
ブラジル時代
《続きを読む》
1982年12月、静岡学園高校をわずか8ヶ月で中退し単身ブラジルへと渡った彼は、持ち前の行動力でCAジュベントスに所属。当時の彼は (テクニックはあったものの) 身長が低く、さらには (他選手と比べて) これといった強みがなかったため、周囲の人たちはそれほど期待を寄せていませんでした。そんな中、1985年頃には夢を諦め日本に帰ろうと思ったそうですが、ふと立ち寄った公園で “貧しい少年たちが裸足でサッカーしている姿” を見かけ、何とか思いとどまったそうです。
その後、1986年に「サントスFC」と念願のプロ契約を結んだ彼は、同年「パルメイラス」と特別契約を結び、日本開催のキリンカップにプロサッカー選手として凱旋帰国。その後移籍した「マツバラ」と「クルーべ・ジ・レガタス・ブラジル」 (CRB) ではレギュラーとして活躍。
1988年には「キンゼ・デ・ジャウー」に移籍し、格上の人気チームから得点を決め勝利を収めたことから、「三浦知良」という名前がブラジル全土に知られるようになります (のちにジャウー市から名誉市民賞を贈呈贈)。その後1989年に移籍した「コリチーバ」でも活躍した彼は1990年、4年ぶりに名門サントスへ復帰。そして見事レギュラーの座を獲得する活躍を見せるのです。
Jリーグでの活躍
《続きを読む》
1990年、Jリーグ発足 (1992年) の現実味が増す中、日本代表に選ばれるためにブラジルから帰国し、読売サッカークラブ (現・東京ヴェルディ) に移籍。当初、周囲の期待とは裏腹に日本のサッカーに馴染めずなかなか思うように活躍できなかったのですが、、、
時の経過とともにうまく順応を見せ、1992年のJリーグカップでは見事ヴェルディを優勝に導き、大会MVPにも選出されました (年間最優秀選手賞も受賞)。そして、Jリーグ開幕 (1993年) 後は「ヴェルディ川崎」黄金期の中心選手として大活躍していくのです 。
欧州への挑戦
《続きを読む》
「高校を中退し単身ブラジルに渡った行動力」を持って、カズは海外へと渡ります。
《 ジェノア 》
ジェノア (イタリア・セリエA) に1年契約で期限付移籍し (1994年)、「アジア人初のセリエAプレーヤー」となりました。しかしながら、怪我・日本代表への招集・度重なる監督交代などが悪影響し、21試合出場 (先発10試合) と平凡な結果に。
その後、セリエAの他チームからオファーが来たのですが、シーズン終了後はヴェルディ川崎に復帰。復帰したヴェルディでは得点王になるなどそこそこの活躍をしますが、1997年頃から (怪我の影響もあり) 若干の衰えが見られるように。
そんな彼に追い討ちをかけるように、W杯最終予選の韓国戦でラフプレイを受けて骨折。これでコンディションを大きく落としてしまったのです。1998年、低迷するヴェルディ川崎は親会社の事業撤退で大幅な経営縮小を決行。その結果、高年俸のベテラン選手たちはリストラされてしまいます (カズに対しても年俸ゼロ円が提示)。
《 ディナモ・ザグレブ 》
その後、クロアチアのクラブチーム「ディナモ・ザグレブ」に2年契約で移籍するも、 (ジェノア移籍時と同様に) 「ジャパン・マネーを狙った経済的な期待があった」と揶揄されてしまいます。それでもカズは、クロアチア・リーグ優勝に貢献する活躍を見せます。しかしながら、新たに就任した監督からは戦力外とみなされ、熱望していたチャンピオンズリーグ (CL) への出場は叶わず。1999年6月には、契約よりも1年も早く日本に帰国することになるのです。
再びJリーガーに
《続きを読む》
《 京都サンガ 》
1999年7月、京都パープルサンガに移籍した彼は翌年「Jリーグ通算100得点」を達成するなど活躍を見せますが、チームは降格。自身2度目のゼロ円提示を受けることになってしまいます。
《 ヴィッセル神戸 》
2001年からはヴィッセル神戸に所属し、4年間キャプテンとしてチームの最前線に。ところが選手としては2002年頃からフル出場の機会が徐々に減ってきます。
《 横浜FC 〜 シドニーFC 》
2005年7月、横浜FCに移籍した彼は移籍後間もない11月、オーストラリアAリーグ (2005年設立) 初のゲストプレーヤーとしてシドニーFC (監督はピエール・リトバルスキー氏) に期限付き移籍。
《 横浜FCに復帰 》
2006年2月からは横浜FCの選手兼監督補佐に就任 (Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ないため登録上は選手)。2010年にはかつて所属していた「キンゼ・デ・ジャウー」からオファーを受けますが、横浜FCに残留。怪我の影響もあって出場機会は少なめですが、出場した際にはきっちり結果を残します。
2011年3月29日に行われた「東日本大震災」のチャリティマッチではJリーグ選抜に選出され、後半17分から途中出場。見事得点を挙げ、カズダンスを披露。2011年12月、横浜FCに所属しながらFリーグ・エスポラーダ北海道にJリーグ選手枠として登録 。翌2012年には「2012 FIFA フットサル・ワールドカップ」の日本代表に選出。
現在は、「最高齢の現役選手」として世界中から注目を集めており、「リーグ戦でゴールを決めた最年長のプロサッカー選手」としてギネス世界記録にも載っています。
日本代表として
《続きを読む》
《 ドーハの悲劇 》
フル代表デビューは1990年。オフト監督の下、エースFWとしてダイナスティカップやAFCアジアカップ1992の優勝などに大きく貢献。1993年のFIFAワールドカップ (アメリカ大会) 予選では1次予選で9ゴール、最終予選で4ゴールを挙げ大活躍。中でも「日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁」韓国を初めて打ち破ったことはとても大きな出来事でした。しかしながら、最終予選 最終戦のイラク戦でロスタイムに同点に追いつかれ (ドーハの悲劇) 、ほぼ手中にしていた本大会への出場を逃してしまったのです。
《 フランスW杯 》
その後、ファルカン、加茂周と監督が代わっても、カズはコンスタントにゴールを決め続けます。1997年6月に行われたワールドカップ (フランス大会) アジア1次予選のマカオ戦では6得点をあげ、釜本邦茂さんに並ぶ日本代表1試合最多得点記録を樹立。しかしながらその後の試合では1ゴールも挙げることができず、「カズ不要論」が高まり、暴徒化した一部サポーターに罵声を浴びせられてしまいます。
結局日本はワールドカップ本大会への初出場を決めたものの、カズはメンバー選考から漏れてしまいます。大会前、帰国直後の会見では (金髪姿で) 「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」とコメントし話題に。その後、日本代表はアルゼンチン・クロアチア・ジャマイカと同組になったW杯本戦を1次リーグで3戦全敗。僅か1得点という結果で終えたこともあって、岡田監督の采配には賛否両論が飛び交います。
《 フランスW杯後 》
フランスW杯終了後、フィリップ・トルシエに監督が交代してからしばらくは代表に招集されることがなかったのですが、1999年末から2000年までは再び代表に招集。しかしながら2000年6月のジャマイカ戦が最後の出場となってしまいました。この試合では、中田英寿からのパスでゴールを決めています。2002年の日韓ワールドカップでは代表スタッフとして帯同を望まれますが、「選手としての参加」を強く望んだため、実現せず。
《 フットサル日本代表 》
2012年、フットサル日本代表に招集された彼は「対ブラジル戦」に出場。日本代表として国際試合に出場するのは2000年以来となりました。その後、2016年に記者から「客寄せパンダ的な利用のされ方をするのは嫌じゃないですか」という質問を受けると、「J2でも横浜FCでもよくそう言われるし書かれるじゃないですか。でも、パンダじゃなきゃ人は来ないですから。その役割は自負していますよ。僕は客寄せパンダで十分です。だって、普通の熊じゃ客は来ないんだもの。」と答えています。
エピソード ☆
《続きを読む》
🔵 中学3年の時、進路志望を書く欄に「第一希望 :ブラジル」と書いたため教師から激怒された
🔴 映画「ゴッドファーザー」が大好きで、趣味はマフィア研究
🔵 好物は「おはぎ」で、自称「全国おはぎ協会」の会長
🔴 浜田省吾 & 矢沢永吉のだいファン
🔵 尊敬する人物はモハメド・アリ
🔴 俗に言う「持っている」と言う表現が大嫌い
🔵 テキーラ大好き
🔴 背番号「11」に強いこだわりを持っている
おわりに
《続きを読む》
ブラジル時代は左ウイングとして、Jリーグや日本代表ではセンターフォワードとしてゴールを量産してきました。ドリブルが得意で、強烈なサイドステップを踏むフェイントやシザーズ (またぎフェイント) などで数多くの敵を打ち破ってきました。全盛期のブラジル仕込みの卓越したテクニック & ディフェンスを置き去りにする一瞬のスピードは圧巻!
元々身体能力に恵まれた選手ではなく、年齢の積み重ねとともにスピードは衰えてきていますが、それでも、ボールを扱うテクニックは今も高いレベルを維持しており、巧みな読みで勝負をし続けています。特筆すべきは「並外れた精神力」でしょう。多くの人が、「カズよりもシュート力・テクニック・スピードのある選手はいるが、精神的な強さで彼をしのぐ選手はいない」と評しています。
イチローはこう述べています。「価値観が同じというか、種目は違うけど互いの考え方を理解しあえる人。大きなプレッシャーを背負いながら、あれだけの力を発揮できる集中力・精神力はさすが」。
唯一ブラジルで成功した日本人選手カズは、世界各国を渡り歩いた日本プロサッカー選手の先駆け的存在でもあります。年齢を重ね、若手選手とは親子ほどの年齢差になってしまいましたが、今も練習は (別メニューではなく) 一緒にこなすそうです。
そんなカズはみんなの人気者!食事会 (カズ会) ではいつも、隣の席の争奪戦が起きるほどに慕われています。1998 FIFAワールドカップでの落選時には、同じく落選した北澤豪選手に「俺たちがやってきたことは間違っていない。大事なのはこの後だ。」とだけ話し、ネガティブなことは一切言わなかったとか。
京都パープルサンガでプロデビューし、カズと共にプレーする前からカズを「アジアサッカー界を代表するスーパースター」と認識していた元韓国代表の朴智星 (パクチソン) は、「自分の原点は京都にあり、中でも規範となり刺激を与えてくれた選手は間違いなくカズである」と語っています。
こんな人物に、あなたもなりたくありませんか?