イメージとは若干異なる忍者の実態

 

忍者は、その個性とミステリアスさから今や世界中の人々の人気の的!とても愛される存在となっています。そんな彼らは主に、三重県伊賀地方と滋賀県甲賀地方において発達した忍術 (独自の兵法) を使って大活躍しました。

 

 

忍者の起源

 

忍者は歴史的には「忍び」と呼ばれ、史料上確実に存在が確認できるのは南北朝時代 (1336–1392)以後。その起源は13世紀後半に荘園制支配に抵抗した悪党にあると考えられています。

(一説には聖徳太子が「忍者を使った最初の人物」とも言われています)

 

以降、戦国時代の「忍び」は各地の大名に召し抱えられており、敵国への侵入、放火、破壊、夜討、待ち伏せ、情報収集などを行っていましたが、その中でも最も重要な任務は「敵方の状況を主君に伝えること」でした。

 

 

なので、極力戦闘を避け、生き延びて戻ってくる必要があったのです。

 

「忍者」のメッカである伊賀 & 甲賀地方は京都にほど近く、まわりを山という天然の要害に取り囲まれていることもあり、大名勢力が弱い一方で自治が発達していました (一揆を形成して武装していた)。

そのため、ときには近隣諸国に傭兵として雇われ、堀を越えて城に侵入し、戦闘に加わっていたのです。

 

 

 

徳川家康に愛された忍者たち

伊賀・甲賀の自治システムは、天敵・織田信長の軍隊によって壊滅的にやられてしまいました。

 

 

また、「甲賀忍者」は豊臣に追われ、歴史の表舞台から完全に去ってしまったかに思われましたが、本能寺の変 (1582年) の後、徳川家康に寵愛されることで復活します。

 

家康が伊賀・甲賀を越えて本拠地である岡崎 (愛知県)に逃れる際には伊賀者・甲賀者が山中の護衛を行いましたし、様々な戦いで家康軍の先陣をきって戦ったのです。

こうして、伊賀者・甲賀者はその功績を認められ、家康に取り立てられることとなるのです (ちなみに伊賀と甲賀はライバルではなく友好関係にありました)。

 

 

 

時は流れ…


 
徳川将軍家に保護され可愛がられた忍者たちでしたが、それは江戸時代初期の話です。江戸時代も中期になると安泰の世 (平和) が続き、やがて彼らの存在意義は色褪せていくのです。
 

ちなみに、東京に「半蔵門駅」という地下鉄の駅がありますが実はこれ、忍者に関係しているんです。江戸時代の初期、半蔵門のそばには伊賀者たちが詰めて住んでいたと言われています。

この半蔵門を整備したのがかの有名な忍者の棟梁・服部半蔵だったのです。つまり、江戸時代の初期頃には東京に、忍者の末裔たちがわんさかと住んでいたのです。

 

 

 

イメージとは異なる忍者の実態

忍者はいまや、日本のみならず世界中の人々を魅了する人気者!クールな黒装束に身を包み、超人的な身体能力で高い塀を乗り越え、敵が来れば手裏剣を投げ、煙玉でどろんと消えたりもします。

しかし、(残念ながら) こうした忍者のイメージは後世になってつくられたもの。。。「忍者」という呼び名も、時代小説や漫画、映画が人気を博した1950年代後半以降に定着したものです。

 

古くは「らっぱ」「すっぱ」など多くの呼び名がありましたが、一般的には「忍び」と呼ばれていました。秘術を使って隠密行動をするのが忍者の務めだったため、史料は豊富ではなく、その多くは謎に包まれていました。

しかしながら近年、研究が進むようになってきてようやく「忍び」の実態の一部が明らかになってきたのです。

 

 

 


①  忍者は基本闘わない

伊賀や甲賀の人たちは、午前中は農作業などの家業に従事していました。午後になってからようやく集まり、任務に備えた鍛錬を積んでいたようです。

忍者の最大の使命は「敵の情報を集めて主君に知らせること」。そのためには極力戦いを避け、生き抜いて戻ってこなければなりません。つまり、日頃の訓練では敵を倒す攻撃力よりも、敵から逃れる守備力を高めるための技を中心に磨いていたのです。

 

彼らは「筋力」「持久力」を向上させるだけでなく、「運動能力」全般を最大限に高めるための体の使い方や呼吸の仕方などを徹底的に追究していました。

危険な任務を遂行するために、「心の強さ」も必要でした。そんなわけで彼らは、日々の鍛錬によりどんな状況にも動じない「心」や臨機応変に対応する柔軟な「精神力」を身に付けていったのです。

 

 

忍者には、「創意工夫」「サバイバル術」「知恵」などが非常に重要で、併せて「火薬」や「薬」の作り方・使い方の知識も豊富でした。

 
 


 

②  忍者は黒装束ではなかった

忍者は (戦闘員というよりも) 優秀な諜報員でした。敵を攪乱するために火術を使ったりすることもあったようですが、一番重要な仕事は敵の城に忍び込み、敵陣に紛れ込み、「兵糧の残り」「城の構造」「敵の人数」などの情報を取って戻ってくることです。

 

 

そのため、装束もわれわれが一般にイメージしているような黒装束ではなく、農民や武士、旅人などに紛れて目立つことのない柿色や紺の衣装を身につけていたとされています。

併せて、手裏剣もあまり使われていなかったとされています。なぜなら、あまり効果的な武器ではなく、技能習得もかなり難しかったからであり、そもそも戦闘員ではなかったからなのです。

 

 

刀も、機敏に動き目立たないようにするためにはむしろ邪魔なもの。一般的には釜を武器として携えていたようです。農民の道具として普通に目立ちませんしね。

 

 

 

 

真実は伝説より凄し!

私たちが憧れを抱いている忍者のイメージは、凧に乗って移動してみたり、池の中に長時間潜っていたり、ササッと城内に潜入してみたり、颯爽と走り抜け手裏剣を投げてみたり、煙に紛れて逃げてみたり・・・

とにかくカッコいい戦闘員の姿ではないでしょうか。しかしながら、これまで述べてきた通り「忍び」はプロの諜報員であり、敵を倒すことが目的ではありません。

 

 

あくまでもスパイとして、異常なまでに「身体」や「疾走力」「跳躍力」などを人体の極限にまで鍛練していたのです。

その結果、「桶に水を浸し、首を突っ込んで長い間我慢する」「唐紙の上に水を撒き、その上を紙を破らずに歩く」「鼻先に軽い綿クズをつけて動かさずに呼吸する」「自分の足元を見ながら小刻みに歩く」「1時間に4里 (約16km)歩く」「1日に40里歩く」・・・

といった特訓を日々積み重ねていたのです。

 

彼らの高跳びや幅跳びは超人級でした。それはまるで現代の体操選手のようでもあり、マラソン選手のようでもありました。

このように、本物の「忍び」は人智・人力を超えた存在だったのです。