【福沢諭吉の名言】1万円札の肖像に選ばれた理由

 

どこの国でもお札 (紙幣) にはその国の偉人や聖人が選ばれます。日本でも、長い間1万円札や5,000円札には聖徳太子が印刷され、1,000円札には伊藤博文が印刷されていました。

1984年からは1万円札に福沢諭吉が、5,000円札には新渡戸稲造が、1,000円札には夏目漱石が登場!(現在の5,000円札は樋口一葉、1,000円札は野口英世となっています)

 

 

というわけで、ここでは長きに渡り1万円札であり続ける福沢諭吉のこと、そして当時の日本文化の特徴について簡単にまとめてみました。
 

 

 

 

福沢諭吉が1万円札の肖像に選ばれた3つの理由

1万円といえば福沢諭吉、福沢諭吉といえば1万円札。これは今や日本の常識でもあります。ではなぜ福沢諭吉が1万円札の肖像に選ばれたのでしょうか?その理由を考えてみましょう。

 

① 著名な文化人であったから

1984年の新札発行の際には、それまで (紙幣の肖像は)政治家だった流れから一気に文化人へと変わっていきました。福沢諭吉といえば「学問のすゝめ」が有名な蘭学者、啓蒙思想家、教育者であり、近代日本において学問の普及に貢献した人物として日本国民に広く知られています。

また、慶応義塾大学を含む慶應義塾の創設者であり、その他にも後の専修大学となる専修学校や一橋大学となる商法講習所などの創設にも尽力しています。

緒方洪庵に蘭学を学び、幕府の遣欧米使節にも3度参加し、『西洋事情』などの著作をするなど、欧米文化の紹介にも力を入れていました。

このように、日本の近代化や学問の普及に欠かせなかった文化人として、親しみもあった福沢諭吉が一万円の肖像として選ばれることになったのです。

 

 

 

② 特徴的で偽装されにくい肖像だから

お札造りにおいて最も重要なことは偽造されにくいかどうかです。そのため、お札の肖像にはルックスに特徴があり偽造しづらい人物を選ぶ必要があるのです。

特に、人物のシワや髭などは描くのが難しいため、それらの要素が含まれやすい年配の男性の肖像が選ばれることが多い理由となっています。福沢諭吉は髭こそありませんが、ほくろなど特徴的なルックスであったので、肖像として選ばれることになったのです。

 

《参考までに》

2004年以降、偽造防止技術の発達により女性も肖像の対象となっています。樋口一葉が出てきたのはこのためです。

 

 

 

③ 発行枚数が多かったため「継続」された

福沢諭吉は1984年の発行の際に選ばれ、2004年に発行されたお札においても引き続きそのまま一万円札の肖像画となっています。

その理由として、新札発行は偽造防止が目的であって短期間で実施する必要があったため、発行枚数が最も多かった一万円札の肖像は福沢諭吉のままにしたそうです。
 

 

 

 

二重文化の国日本

日本という国の特色は、一面では西洋起源の近代文明を取り入れた高度に発達した国でありながら、他面では固有の文化を維持している国、言い換えると「二重文化の国」なのです。

ところで、現在の日本のお札に現れている3人の偉人たちはいずれも19〜20世紀の、日本が圧倒的な西洋文明の衝撃を受けた時の人物です。世界の中の日本について思想面・教育面・文化面でいろいろ考え、様々な著書を発表した人たちなのです。
 

 

 

 

若き日の福沢諭吉

福沢諭吉は江戸時代末期から明治初期に生きた中津藩の藩士であり、著述家であり、啓蒙思想家であり、教育者でもありました。19歳の頃には長崎へ遊学して蘭学を学び、蘭学者ともなりました。

幕末の時勢の中、慶応大学のみならず、専修大学や一橋大学、北里研究所、東京大学医科学研究所などの創設にも尽力。そんな諭吉は1835年下級武士の次男として九州に生まれ、日本人として初めて本格的に英語を勉強したのです。

 

 

日本がアメリカへ最初の使節を派遣したのは1860年のことですが、福沢はその船 (咸臨丸) の司令官 (勝海舟) の従僕として乗り込み、サンフランシスコへと渡ります。その時彼が購入したウェブスターの辞書が、日本に持ち込まれた最初の英語の辞書だと言われています。

このようにして英語の力を身につけた福沢は、1862年、徳川幕府にヨーロッパ派遣時の通訳として雇われたのです。ちなみに勝海舟とは馬が合わず、晩年まで険悪な関係が続いていたそうです。
 

 

 

 

慶應大学の父

日本は1639年以来鎖国状態にありましたので、西洋文明の正体が必ずしもよくわかりませんでしたが、福沢は自分自身が見聞きしたこと、西洋の書物を読んで理解したことなどをもとに1866年、「西洋事情」という本にまとめ出版しました。

当時の日本人は西洋のことを知りたいと思っていましたから、「西洋事情」は初編第1版だけでも15万部があっという間に売り切れました。福沢は慶應大学を創り、そこで英語を教え、英語の書物を通して西洋の近代文明の多くを若者たちに教えていったのです。

 

 

当時の日本人の多くは、「どうにかして日本は欧米先進国に追いつかなければならない」という熱情に駆られていました。そうした意味で、日本英学の祖・福沢諭吉は19世紀後半の文明開化運動の主導者であり、明治日本の指導者たちにとって「知的な父」でもあったのです。

諭吉は1901年に亡くなりましたが、彼の著書「福翁自伝」は興味津々の内容となっていますので、興味のある方はぜひお読みください。日本の近代化の歴史に興味のある方にはオススメの一冊となっています。

彼が創った慶応大学からは多数の実業家が世に出ており、諭吉自身もその著書「学問のすすめ」が数百万部も売れ、財を成しました。そんな彼が今の1万円札の肖像になっているのです。
 

 

 

 

福沢諭吉の名言

 
人生は芝居のごとし、上手な役者が乞食になることもあれば、大根役者が殿様になることもある。とかく、あまり人生を重く見ず、捨て身になって何事も一心になすべし。

 


 

学問の本趣意は、
読書に非ず、
精神の働きに在り。

 

 

自ら労して自ら食うは、
人生独立の本源なり。

 


 

人は他人に迷惑をかけない範囲で
自由である。