「プリンセス天功」になった経緯と命懸けイリュージョンの大変さを知ろう!

 

プリンセス天功という名前は、1959年6月29日に新潟県で生まれ育った本名・板倉満里子さんの芸名です。満里子さんは歌手でありイリュージョニストであり、2代目引田天功として世界的に超有名なんですよ。

(ただし、公的には本名・実年齢などは様々な契約上の問題により明らかにされていないことになっています)

 

1977年、当時歌手だった彼女はすでに有名な魔術師であった引田天功 (初代) の代打として「ステージに立ってみないか」という依頼を受けます。この頃、初代・引田天功は心臓疾患に苦しめられていました。

 

初代・引田天功

 

 

この時彼女がやってのけたことは、ロープにぶら下がり上下している (燃えている) ゴンドラから脱出する、という初代の得意技でした。これを見事にやってのけた彼女は、名声を手にいれたのです (ヤンヤヤンヤ)。

 

それから1年後の1978年、彼女は朝風まりという芸名で「歌うマジシャン」としてデビュー。

そして1980年、初代・引田天功が他界し、彼の名前を引き継ぐことになった彼女は、危険な脱出劇などの様々なイリュージョンをやり続けていくこととなるのです。

 

 

 

 


プリンセス天功として

2代目・引田天功としての人生を歩み出した彼女は、その (イリュージョニストとしての) イメージ をとても大事にしてきました。そうこうしているうちに、1989年にはついに、アメリカのおもちゃ会社との契約で、人形 (キャラクター) のイメージを厳しく守っていかなければならないという道を選んだのです。

身長・体重はおろか、髪の長さまでもが決められた長さを保ち続けなければなりません。年齢は永遠に24歳です。去年も今年も来年も、永遠に24歳であり続けなければならないのです (それがプリンセス天功としての生きる道)。

 

 

幼少期の頃からクラシックバレエや和楽、ピアノなどを習っていた彼女は、本当はお母さんと同じピアニストとしての道を歩みたかったそうなのですが、人生ってどうなるかわからないものですねー。

まさかイリュージョニストになるだなんて。それも、こんなに有名になってしまうだなんて。不思議なことに、これって何もかもが「偶然」からのスタートだったんですよ。

 

実は、まだ歌手として活躍していた頃、彼女は初代・引田天功の見習い役でした。けれども、彼が突然亡くなってしまったため、彼女は3人いた見習いの中から2代目・引田天功に選ばれてしまったのです。

その後はご存知の通り、プリンセス天功として世界的にも大活躍していくことになっていきます。

 

 

 

 


プリンセス天功の世界的な大成功!

彼女の名声は雪だるま式に増大し続け、1994年にはニューヨークで十数万人の観客を魅了することとなります。1995年には “天功人形” がバカ売れ状態に…!

さらには、テレビアニメ「Princess Tenko and the Guardians of the Magic」がシリーズ化されるほどの大盛況ぶりにもなりました。

 

 

こうした大成功が、今度は北朝鮮やブルネイ、モナコなどの諸外国に国賓級の扱いで招待されることに繋がっていったのです。事実、北朝鮮の指導者であった金正日 (キムジョンイル) などは彼女の大ファンで、全ての “天功人形” を所有し、彼女の名前が付いている劇場を平壌に建設したほどです。

 

 

・・・にも関わらず、1998年と2000年に北朝鮮を訪問した際には自宅軟禁に近い状態で、それから日本に戻った後は驚くほどに追いかけ回されたそうです。

 

ロマンスに関しては、しばしば「魅力的な関係はあるわよ」なんてほのめかしたり、「ハリウッドのセレブと近々結婚するんじゃないか」といった噂が流れたり。。。

真意のほどはわかりませんが、ジャン・クロード・バン・ダムとの噂などもありました (2001年に彼が強く否定するまで)。

 

 

 

 

 


時には大失敗も…

彼女のショーは、基本的には一般的な魔術師のように「箱の中で切り刻まれたり」「宙に浮いたり」「消えたり」するものなのですが、時にはもっと過激なこともやりました。その結果として、あの金正日にも好かれてしまうわけなのですが。。。

 

時に大変なアクシデントに見舞われてしまうこともあります。火、剣、銃、爆薬などの危険物を使用する公演の中で、致命的かつ深刻な事故が起こったりもするのです。

例えば2007年には、予期せぬアクシデントにより肋骨を骨折し頬に深い傷を負いました。この事故は、箱の中で剣を突き刺されている時に起こりました。後日談ですが、実は、あわや目を突き刺すほどの大変な危険性があったそうなんです。