「最強の格闘技は?」という問いによく候補として挙げられるのが「相撲」です。たとえば、全盛期のマイク・タイソン (ボクシング) やセーム・シュルト (総合格闘家) などは世界最強だったかもしれません。しかしながら、150kgもの巨体で力士ほど俊敏に動けるファイターはそうはいません。そう考えると、相撲が「世界最強格闘技の一つ」であることは間違いないでしょう。
相撲の歴史を紐解いてみると「神話の時代」にさかのぼります。そんな時代に「力比べ」として存在していた相撲が今の形になったのは戦国時代以降だと言われています。己の腕っ節だけが頼りの時代。武士の鍛錬のひとつとして、相撲は盛んに行われるようになっていったのです。あの織田信長も相撲が大好きで、安土城で大規模な相撲大会を開催していたようです。
そして江戸時代になると、相撲は興行として人気を博していきます。江戸時代の初期には神社の修復費用を集めるための興行として相撲が行われていましたが、ならず者の食い扶持になったり喧嘩や騒動の原因になったこともあって、幕府から禁止令が出たこともあるようです。それでも庶民はそこら辺で行う「辻相撲」が大好きでした。
そして江戸時代も後期になると、史上最強と語り継がれる雷電が現れます (雷電は21年の現役生活の中で254勝をあげ、わずか10敗しかしていないそうです)。そのような歴史を踏まえて、あなたは「誰が最も強く、人気だった力士」だと思いますか?
双葉山
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双葉山 (1912 – 1968) は大分県出身の第35代横綱です。幼少期の怪我で右目は半失明状態だったと言われています。下積み時代の双葉山をよく知る人物は彼のことを「相撲っぷりは平凡だった。ただ、稽古熱心で、どんなに叩きつけられてもけっして弱音を吐くことはなかった。」と評しています。そんな双葉山は次第にメキメキと頭角を現し、やがて歴代連勝記録第1位となる「69連勝」を成し遂げます。終戦に前後する形で引退した双葉山は1947年、「日本の敗戦による虚脱感」「指導者としての悩み」「マインドコントロール」などが重なり、新興宗教の犯罪に手を貸すことになります (逮捕されたのちに我を取り戻します)。
こうして不祥事を起こしてしまった双葉山ですが、現役時代の実績と、引退後も国民的人気が高かったことから相撲協会の理事になります (その後理事長にまで登りつめます)。晩年は肺炎で体調を崩す日が続き入退院を繰り返します (享年56)。そんな彼は、どんな相手に対しても同じような態度で臨み、自ら「待った」をかけることはありませんでした。土俵上での短い仕切り時間に無駄な動作を嫌い、極限まで集中力を高めていたその土俵態度は「力士の模範」とまで言われています。
右目の状態は、入門から入幕の頃には霞んだり物が二重に見えたりしていたようですが、やがてほとんど見えなくなっていたようです。それでも本人は「なまじ見えるよりその方が都合が良かった」と語っています。対戦力士たちからは、「あの人(双葉山)は目の前の相手と違うものを見て相撲を取っている」といった証言が多く寄せられています。事実、双葉山の右目はやや白濁しており、白い星がありました。そのことから「神眼」として恐れられていたとも言われています。
🔴 身長 : 180cm
🔵 体重 : 135kg
🔴 第35代横綱
力道山
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力道山 (1924 – 1963) は朝鮮半島の出身で、本名をキム・シンラクといいます。相撲のため日本にやって来た彼は1940年に初土俵を踏み、戦後の1949年には関脇にまで昇進しますが、1950年に突然引退。その理由は、「師匠との間に金銭トラブルを抱えていた」とも「民族の壁に大関昇進を拒まれていた」とも言われています (相撲界からの引退時、百田の戸籍に入籍)。
その後、たまたま知り合ったプロレスラーと意気投合したことをきっかけにプロレスラーに転身。結果的にはこれが大成功!1953年にテレビ放送が始まったことを追い風に、プロレスが大ブームとなります。こうして力道山は、「日本プロレスの父」と称されるまでになりました。そんな彼は「足を踏んだ、踏まない」といった些細なことから暴力団員 (ヤクザ) と口論になり、腹部を刺されてしまいます。手術は成功だったようですが、術後すぐに暴飲暴食を繰り返したことで体調が悪化。さらに再手術後も暴飲暴食を繰り返したことで腹膜炎を起こし死去したと言われています。
一方で、医療ミスだったという説もあるようです (享年39)。墓所は東京都大田区にある池上本門寺のほかに、(日本での故郷) 長崎県大村市の長安寺にある百田家の墓所に分骨されています。そんな力道山はもともと粗暴な人で、機嫌が悪いときにはよく飲食店で暴力沙汰を起こしていたようです。そんなこんなで命を狙われることも多かったようです。そんな彼は合法的に猟銃を数丁所持し、拳銃まで所持していたと言われています。余談ではありますが、在日韓国人二世で元プロ野球選手の張本勲さんは力道山に可愛がられていた一人だそうです。
🔴 身長 : 176cm
🔵 体重 : 116kg
🔴 関脇
大鵬
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大鵬 (たいほう:1940 – 2013) は北海道出身の大横綱です。ロシア革命後に樺太へと亡命したウクライナ人の父と日本人の母の間に三男として生まれ育った彼は、外国出身の力士ではなく日本人力士とされています。母子家庭で貧しい暮らしをしてきた彼は高校を中退し二所ノ関部屋に入門。入門当初より柏戸と共に「横綱確実の大器」と評されており「ニ所ノ関部屋のプリンス」「ゴールデンボーイ」などとも称されていました。ライバルの柏戸と競い、終戦直後の復興から高度経済成長期の相撲黄金時代を支え、1961年には2人揃って横綱になります (のちに横綱となる白鵬の四股名はこの両力士に由来)。
優勝32回 (6連覇:2回)、45連勝などを記録したことから「昭和の大横綱」「戦後最強の横綱」と称されていました。また、現役時代は大変な美男子と評判で女性から大人気!大鵬の取り組みの時には銭湯の女湯が空になったといいます。さらには、当時の子供たちの好きな物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語はあまりにも有名で、全盛期には大鵬さんにあやかって「幸喜」と命名された男児が多くいたようです (脚本家の三谷幸喜さんもその一人)。
引退後の大鳳さんは、「柏戸さんの出足は最後まで脅威だった」と語り、「生まれ変わったら今度は柏戸さんのような相撲取りになりたい」とこぼしていたそうです。ちなみに相撲取りでのちにプロレスラーとなった天龍源一郎さんは大鳳さんの付き人でした。
🔴 身長 : 187cm
🔵 体重 : 153kg
🔴 第48代横綱
千代の富士
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ウルフと呼ばれた北海道出身の小さな大横綱「千代の富士」 (1955 – 2016) の力士生活は肩脱臼との戦いでもありました。そんな彼は努力の甲斐あって次第に頭角を現し、その細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、豪快でスピーディな取り口から、老若男女を問わず大人気!まさにアイドル顔負けの人気を誇っていました。度重なる怪我の影響もあって度々「限界説」も囁かれていましたが、彼の本当の黄金時代は30代に入ってからでした。1988年には53連勝 (歴代3位) を記録するなど他を寄せつけない強さで、昭和末期から平成初期にかけての「千代の富士時代」を築き上げます。
しかしながらその翌年には三女の愛ちゃんをSIDS (乳幼児突然死症候群) で亡くし、精神的に大きなショックを受けます。師匠の九重親方は「もう相撲を取れないんじゃないか」と心配したほどです。しかしその直後の夏場所は首に数珠を掛けて場所入りし、優勝決定戦で同部屋の弟弟子横綱・北勝海を下して奇跡の優勝!同年9月場所には通算勝ち星の新記録を達成し、大相撲で初となる「国民栄誉賞」を授与されます。この日は先代九重 (千代の山) の13回忌が行われた日でもあり、千代の富士は「苦労をかけた師匠に良い報告ができます」と言ったそうです。
その後も怪我との戦いは続きます。年齢的なこともあります。休場明けの復帰場所となった1991年5月場所は初日に新鋭・貴花田 (のちの貴乃花) と対戦。まわしが取れず頭をつけられ、寄り切りで敗れてしまいます。この取り組みがきっかけとなり、「体力の限界・・・気力もなくなり、引退することになりました。」と引退会見を行いました。その後の親方生活を経て、2016年7月31日に膵臓がんのため61歳の若さで亡くなります。「入幕後、幕下に陥落」「三役昇進後、十両に陥落」した経験を持つ苦労人の大横綱のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
🔴 身長 : 183cm
🔵 体重 : 126kg
🔴 第58代横綱
小錦
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小錦 (1963~) はハワイ出身 (サモア系アメリカ人) の元力士で、現在は帰化して日本国籍を取得しているタレントさんです。現役時代には「大相撲史上最重量の巨体」であったことから「ダンプトラック」などと称されていました。最高位は外国出身力士として初めての「大関」。貧しいながらも敬虔なクリスチャンの家庭に生まれ育った彼は、小さい頃から運動万能でした。高校生になると、真面目だった素行が一転、毎日喧嘩に明け暮れるようになります。そんな彼は1982年、ホノルルに完成した「高見山記念土俵」の土俵開きで知り合った高見山に熱心に勧誘され、家計の苦しさも知っていたので入門を決意。泣いて反対する母親を説得し入門します。
成田空港に降り立った時の小錦は、上はTシャツ、下は民族衣装の巻きスカート姿で、手にした小さなカバンの中は着替え・バイブル・家族写真、それに母親が持たせてくれた5000円札1枚だけだったそうです。新弟子検査では体重計の目盛が振り切ってしまったそうです。さらに、両国国技館に常設されている力士専用の個室便器があまりにも小さすぎたため、小錦用に特注されたとも言われています。
高砂部屋では入門当初、兄弟子たちからイジメを受けていたようです。暴行を受け、身の回りの物を隠され、故郷の親や友人から届いた手紙を捨てられたこともありました。しかし小錦はどんな嫌がらせを受けてもその場で仕返しすることはなかったといいます。稽古で土俵に上がった時に相手を思い切り打ち負かすことで、兄弟子たちへの「復讐」をしていたそうです。そうして次第にイジメはなくなっていきます。高見山や水戸泉などは彼の良き理解者だったようで、彼自身が昇進した後は後輩の面倒をよく見たと言われています。
そんな彼は体重があまりにも重かったことから怪我に泣かされ、好不調の波が大きかったようです。痛み止めの薬を飲みすぎて出血性胃潰瘍を発症し、命の危険に晒されたこともあったそうです。引退後の彼はボランティア活動にも積極的で、阪神・淡路大震災の復興支援などを行います。また、「KONISHIKI基金」を設立し、ハワイの子どもへの就学援助や日本との文化交流にも力を注いでいます。横綱にはなれませんでしたが、その存在感と人気は横綱クラスだった小錦。人格者として角界の人気・地位を向上させたことに加えて、彼の存在が外国人力士の評価を高めたと高く評価されています。
ちなみに引退後の彼はMax体重が300kgを超えてしまい、「このままでは死んでしまう」と思ったのか真剣に痩せることを決意。胃の縮小手術を受け、「最終目標は130kg」とダイエットに精を出しています。
🔴 身長 : 184cm
🔵 体重 : 287kg
🔴 大関
舞の海
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舞の海 (1968~) は、「平成の牛若丸」「技のデパート」と呼ばれるほどに多彩な技を繰り出す人気力士でした。中学・高校・大学といずれも相撲部に所属し、卒業後は高校の教員になる予定でしたが、同郷の後輩の急死をきっかけに、一転大相撲入りを目指します。しかしながら当時169cmで新弟子検査基準に達していなかったため、手術で頭にシリコンを埋め込み、身長を高くして合格を掴み取ったのです。
そんな彼は、体重差約200kgの小錦との取り組みで靭帯損傷の大怪我を負ってしまったり、休場が続いて十両へ陥落してしまったり、水戸泉戦で靭帯を損傷 & 肉離れを起こして休場。このように、度々窮地に追い込まれていました。それでも、小兵でありながら魅力的な取り組みを見せ続けてくれたことは多くのファンの脳裏に焼きついていることでしょう。
🔴 身長 : 171cm
🔵 体重 : 96kg
🔴 小結
曙
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曙 (1969~) はハワイ出身の第64代横綱です (日本国籍を取得)。引退後は総合格闘家 & タレントに転向し、現在は急性心不全の後遺症である「記憶障害」のリハビリ中でもあります。同期入門には「花の六三組」(昭和63年春初土俵組) である若乃花・貴乃花・魁皇・和歌乃山などがいます。「小さい力士には鶏を追うように行け」との指導を受け、2mを超す体格を生かすベく技術を磨いていきます。そうした努力が実を結び、小兵でスピーディーな相手も苦にしない強烈な突き押しが生まれたのです。
怪我や不調などもあって全てが順風満帆だったわけではありませんが、最終的には史上初の外国人横綱に!同期の若乃花・貴乃花の最大のライバルとして、幾多の名勝負を演じてきました。特に、「平成の大横綱」と呼ばれた貴乃花とは一時代を築き上げ「曙貴 (あけたか) 時代」と言われていました。ちなみに貴乃花との幕内での対戦成績は21勝21敗。優勝決定戦まで含めた本場所中の対戦成績は25勝25敗と全くの五分でした。
🔴 身長 : 204cm
🔵 体重 : 233kg
🔴 第64代横綱
貴乃花
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貴乃花 (1972~) は藤島部屋 (のちに二子山部屋) に所属した第65代横綱です。父は元大関の貴乃花利彰、母は元女優の藤田紀子、兄は若乃花 (花田虎上)、そして元妻はアナウンサーでタレントの河野景子さんです。そんな彼が相撲に身を入れ始めたのは父の現役引退が契機だったようで、その頃から「自分が相撲界に入って父が果たせなかった夢を実現させるんだ」という強い思いで稽古に打ち込んだそうです。
入門当時からその優れた素質が話題となり、前評判に違わず数々の最年少記録を打ち立てていきました。新弟子検査時には「これは新弟子の体じゃない。今すぐ幕下で通用する。」と親方たちから驚嘆されるほど。「親方の息子」ということでやっかみやイジメもあったようですが、そんなことにはめげず、トイレにダンベルを持ち込んで黙々とトレーニングをこなしていったようです。母親の証言によれば、部屋の兄弟子たちが貴花田 (のちの貴乃花) の昼寝を妨害していたそうで、それに打ち勝つことが稽古よりも大変だったとも言われています。
そしてついに、17歳と2か月の若さで新十両に昇進。出世に髪の長さが追いつかず、大銀杏が結えず、ちょんまげ姿で土俵に上がっていました。18歳の時 (1991年) には横綱・千代の富士から大相撲史上最年少の金星を獲得。この取り組みが千代の富士に引導を渡すこととなったのです。やがて、弟にわずかに遅れて入幕した兄・若花田とともに「若貴フィーバー」を巻き起こし、相撲ブームを牽引していきます。猛稽古の甲斐あって、1991年の大関昇進を機に父と同じ貴乃花に改名した彼は、曙や武蔵丸など強敵がひしめく時代の中にあって驚異の強さを発揮します。
しかしながら1996年以降は横綱の宿命とも言うべき怪我の影響もあって次第に成績不振に。それでも、2001年の復活 & 最後の優勝 (22回目)をした際には (対武蔵丸戦) 会場も小泉首相も割れんばかりの大喝采!大怪我の中、誰もが武蔵丸の勝利を確信していたのですが、その大方の予想を見事覆し武蔵丸を豪快な上手投げで破ったのです。直後の鬼の形相と奇跡的な優勝に小泉純一郎首相は表彰式で「痛みに耐えてよく頑張った! 感動した!! おめでとう!!!」と貴乃花を賞賛。後世に語り継がれる大一番となりました。
その後、2003年1月場所の途中で引退。当時まだ30歳で、父とほぼ同年齢での引退でもありました。引退会見で連発した「非常にすがすがしい気持ち」、「心の底から納得しております」は流行語にもなりました。
🔴 身長 : 185cm
🔵 体重 : 161kg
🔴 第65代横綱
高見盛
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高見盛 (1976~) は青森県 & アマチュア相撲の出身で、「各界のロボコップ」とあだ名され、取り組みに多数の懸賞金がかけられたりテレビCMに出演するほどの人気力士となりました。その華々しさとは裏腹に、気の弱い性格で、高校時代には後輩にもいじめられていたそうです。高校時代の恩師は「稽古で勝てなくて泣いて。要領が悪く人より行動が遅れて泣いて。」と高見盛が泣き虫だったことを証言しています。
そんな彼は人気力士となった後もシャイで人付き合いが苦手だったため、サイン・握手・記念撮影を滅多に応じないことでも有名でした。付き人に対処させたり、子供が駆け寄ってきても目を合わせず、無視して逃げることもあったといいます。そんな高見盛は出稽古で朝青龍に勝った報復ともとれるバックドロップのような吊り落としを受けたことで、右差しを得意とする力士の生命線ともいえる右肩を亜脱臼し、医者から「もう治らない。ずっとこの痛みと付き合っていくしかない。」と診断されたそうです。
事実、その後の成績は振るわなくなってしまいました。衰えない人気とは裏腹に、二度と三役に返り咲くことはなかったのです。土俵上で肩を怒らせ雄叫びと共に両拳を上下する仕草や、島木譲二の「パチパチパンチ」のように顔や胸を叩くユーモラスな「気合入れ」がファンの人気を集め、場内を沸かせ続けた高見盛。成績の不振さもあってか、晩年は胸を軽く叩く程度に落ち着いていました。
🔴 身長 : 188cm
🔵 体重 : 145kg
🔴 小結
朝青龍
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朝青龍 (1980~) はモンゴル出身の元横綱で、現在は実業家・タレント業など多方面で活躍しています。1997年に日本の明徳義塾高校に相撲留学した彼は、スカウトにより高校を中退し角界に入門。入門時には「一生懸命頑張ってお父さんとお母さんを喜ばせたい。」と抱負を語っていました。その後、2003年11月場所限りで武蔵丸が引退したことによって、2004年1月には朝青龍が市場8人目の一人横綱となります。そんな状況が、彼をやんちゃでワンマンにしてしまったのかもしれません。度々問題となる言動を行うなど、ある意味、各界のみならずワイドショーをも賑わす人気者となりました。
そんな彼は、最終的には暴力疑惑が引き金となって引退してしまいます (2010年)。貴乃花や白鵬とともに「平成の大横綱」と称されてもいますが、不祥事続きの引退だったため、異論を唱える人も少なくないようです。彼を知る人の証言によれば、「朝青龍は取組後の感情をうまくコントロールできなかった」「すぐに泣くし、騒動時はショックで放心状態だった」といった具合に、感情の起伏が激しく繊細な人物のようです。
賛否両論のある「横綱」ではありましたが、その強さは間違いありません。横綱昇進後、部屋では本人の希望で馬乳入りのちゃんこが出されることもあったようですが、さすがに日本人の若い衆たちはこれを食べるのに苦労したといいます (笑)。またこんな一面もあります。2005年11月場所14日目、魁皇に勝利し前人未到の7連覇を達成した朝青龍は、いつもの睨みつけるような眼ではなく涙目で懸賞金を受け取っていました。そして、花道の奥に引き上げると声を上げて大泣き。この時のプレッシャーと感動はひとしおだったようです。
とはいえ、やはり彼の素行は悪く、けっして褒められたものではありません。その原因は「日本の母」と慕っている細木数子さんにあるのでしょうか。度々スポーツ紙の記者たちに暴言を吐いたり、先輩である舞の海さんをバカにした発言をしたりと常軌を逸した傍若無人ぶりも。人間としては未完の男ではありますが、相撲の実力は天下一品。あなたはこの現実をどう評価しますか?
🔴 身長 : 184cm
🔵 体重 : 154kg
🔴 第68代横綱
白鵬
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白鵬 (1985~) はモンゴル出身の第69代横綱で、本名はムンフバティン・ダワージャルガル。なぜか納豆が好きなようです。父親はモンゴル相撲のレジェンドで国民的英雄。母親はチンギス・ハーンの流れを汲む家柄の出…とも言われています。モンゴル時代で思い出に残っているのは小学生の夏休み。毎年1ヶ月間を伯父の牧場で過ごし、ゲル (移動式の住居) で目を覚まし、馬に乗って羊の世話をし、夕暮れ時にはオオカミの襲来に目を光らせていたそうです。腹が減ればプレーリードッグを狩り、熱した石でこんがり焼いて食べました。
白鵬は「鶏の手羽先に似た味がしてね。大好物だった」と後に振り返っています。祝いの日には羊の丸焼きを頬張り、馬の乳を発酵させた馬乳酒を飲みます。草原の食で腹を満たし、馬で駆け巡った日々は、しなやかな足腰の原型を作ったとも言われており、「あの経験がなかったら横綱にはなれなかった」と自身もインタビューで語っています。
そんな白鵬が各界入りする時に大反対だった母親は、「きっと激しい稽古が待っている。大きな苦労を知らないでのびのびと育ってきたダワーが、日本での厳しい修業に耐えられるはずがない。きっとつらくて戻ってくるに違いない」と早々と帰郷すると予想して、入門を許したといいます。しかしそんな母親の予想を良い意味で大きく裏切ります。モンゴルの中等教育学校を卒業後に初来日したダワージャルガルは、その後2年半に渡り一度も帰郷せず日本で相撲に打ち込みます。その結果、大横綱になるのです。
来日当初は小柄だった白鵬を受け入れてくれる部屋なんてありませんでした。それでも、英語で “I don’t want to go back…”と泣いて訴えたといいます。そんな彼を哀れんだ旭鷲山が自らの師匠に相談し、師匠の友人であった宮城野さんが引き受けることになります。当時の宮城野部屋は弱小部屋で厳しいしきたりがなく、育ちの良い白鵬には良い環境だったようです。こうして、細く華奢だった白鵬は毎日吐くほどに食べさせられ、次第に大きく強く成長していったのです。
四股名は、横綱の大鵬と柏戸に因み名付けられました。そんな白鵬は幕下時代、朝帰りをして師匠に破門を切り出されたことがあります。この時、部屋付きの親方衆や兄弟子たちが師匠を諫めていなかったら、白鵬は引退に追い込まれ、横綱・白鵬は出現しなかったかもしれません。また、入門後しばらく経過した頃、父のムンフバトが部屋を辞めさせて鳥取城北高校に預けたいと考えていたことも。この時は知人が「大相撲は一度辞めたら二度と復帰できない」と諭したそうです。人生って不思議な巡り合わせの集合体のようなものなんですね。
その後白鵬は、2007年から今日まで長きにわたって横綱として大活躍しています。モンゴルでは次男が家督を継ぐという慣習があるため、次男の白鵬本人はモンゴル国籍のまま (帰化せず) 親方になりたいと考えているようです。そんな白鵬にはウサイン・ボルト (陸上選手) に匹敵する瞬発力と反動を起こさずに筋肉を動かせるといった力士にとって理想的な身体能力が備わっているといいます。
🔴 身長 : 192cm
🔵 体重 : 158kg
🔴 第69代横綱
おわりに
ここ数十年を振り返ってみると、やはり千代の富士と貴乃花の人気は他を凌駕しているようです。彼らは観ているものを感動させ、懸命に応援したくなる何かを持っていたのです。小さな体で大型力士たちをバタンバタンと投げ倒してみせたり、怪我にも屈しない取り組みで壮絶な勝ちをおさめてみせたり。
まさに、彼らのようなスーパースターたちの取り組みを生で観ることができたのは本当に幸せなことだと思います。今後も、彼らのようなスーパースター力士たちが現れ、伝統ある大相撲をさらに盛り上げていってくれたらいいですね!
最後に、
幕内における優勝回数は白鵬が第一位!
2位の大鵬 (32回) 、3位の千代の富士 (31回) 、4位の朝青龍 (25回)、5位の北の湖 (24回)、6位の貴乃花 (22回)、7位の輪島 (14回)を大きく上回っています。