「私はがんだけど、ずっと山に行くんだ」
登山家として数々の偉業を成し遂げてきた田部井淳子さんは、人生最期の瞬間まで山に登り続けようとし、その生涯を見事全うしました。晩年はがんに侵されていましたが、それでも山に登ることをけっして諦めなかったのです。
東日本大震災 (2011年) の後、東北の高校生たちに「未来に進む勇気と自信を持ってほしい」と毎夏、(彼らとともに) 富士登山を行ってきました。そんな田部井さんの生涯最後の登山は2016年、亡くなる数ヶ月前のことでした。
1975年、エベレスト日本女子登山隊の副隊長兼登攀隊長として、世界最高峰の山エベレスト (ネパール名:サガルマータ、チベット名:チョモランマ、8848m)に女性世界初の登頂に成功した田部井淳子さんは、女性登山の先駆者として病と闘いながらも東日本大震災の被災者を励ます取り組みを続けてきたのです。享年77…
本当に残念でなりません。
エベレストに登った時 (35歳)
エベレストに登ったときのチームは15人でした。でも、登山の拠点となるベースキャンプ(5350m)に入るまでに隊員が次々と高山病にかかり、動けるのが5、6人という状況に。アタック(頂上を目指すこと)直前には大きな雪崩もあり、資材面でも体力面でもギリギリでした。
最終的に頂上に立てたのは、山の案内をしてくれたチベット系ネパール人と田部井さんだけ。頂上の8848mは、まさに未知の世界なのです。たどり着いたのは1975年5月16日午後12時35分。最終キャンプ(標高8500m)を出てから6時間40分が経過していました。
頂上は鋭角で、右側が中国、左側がネパール。雲が下に浮かんでいます。風はとても強く、正直、感激よりも「もう登らなくていいんだ…」という気持ちの方が強かったそうです。「無事下りられるのか」という不安もあります。ようやく喜びのようなものがこみ上げてきたのは全員がベースキャンプに下りたとき。みんなが無事だということが何より嬉しかったのです。
当然ながら、エベレストはひとりでは登れません。15人の隊員、荷物を運んでくれる600人ものポーター、シェルパ (ネパールの少数民族) 40人、報道関係者8人。みんなで登ったのです。
登山期間は130日でしたが、その前に1400日間の準備期間がありました。当時エベレストには1シーズン1隊しか登れないという決まりがあり、ネパール政府の許可をもらうことも大変でした。資金集めや仲間集めにも苦労しました。
「女がエベレスト?」と相手にされないことも多く、様々な事情で離れていった仲間もいます。資金の多くはスポンサーについてくれたテレビ局と新聞社に頼っていましたが、それでも足りず、隊員15人がそれぞれ150万円を自己負担しました。
登頂は一瞬の出来事ですが、そのために3年以上もの長い間、多くの人たちが大変な準備を行ってきたのです。
「私たちがエベレストに登れたのは、体力や技術が優れていたからということではありません。本当にやりたいという意思があって、この長い準備期間に耐えられたからこそなのです。」
「私は登り続ける!」
ある日、田部井さんはキャンプで雪崩に巻き込まれて負傷したことがありました。隊長の判断は「下山」。しかし、それまで隊の方針に忠実だった田部井さんはこのときばかりは登頂を譲らず、歩みを止めませんでした。とにかく、田部井さんは肉体的にも精神的にも強い人だったのです。
がん発病後、周囲は「体に負荷をかけないほうがいい」と訴えてきましたが、田部井さんは「山登りをしているときのほうが元気でいられる。ベッドにいても幸せじゃないから。」・・・そう笑顔で答えました。
福島県出身の田部井さんは震災後、東北地方の高校生と一緒に富士山に登る活動にずっと取り組んできました。「一歩一歩進めば、いつかは頂点に着くと実感してもらいたい。」という想いを胸に・・・
仲間たちの声
登山家の野口健さんは、「(田部井さんの) エベレスト登頂で、男社会だった登山界を変えた」と語っています。以前、2人はヒマラヤ山脈のマナスルに一緒に登る機会がありました。
標高7800m付近で猛吹雪に見舞われ、「登頂に失敗したらかっこ悪いかなぁ」と野口さんが漏らしたとき、田部井さんは「シャバの考えを山へ持ってくるな!」と一喝したそうです。田部井さんは、山では冷静で厳しいことも言う人でした。
家族ぐるみの付き合いをしていた冒険家でプロスキーヤーの三浦雄一郎さんは、「田部井さんはいつも前向きで、会うたびに元気をもらっていた」と語っています。
そんな田部井さんにも実は長い登山人生の中で「もうダメだ」と思ったことが三度ほど (いずれも雪崩に巻き込まれたとき) あるそうです。
女性だけでエベレストを目指したわけ
田部井さんといえば女性登山家の先駆けです。女性だけで編成された登山隊を結成し、1975年に世界最高峰のエベレストに女性として世界で初めて登頂に成功しました。でも一体なぜ、田部井さんは女性だけでエベレストを目指したのでしょうか?
その理由はいたって簡単です。女性だけであれば、男性との混合チームと比べて「体力や体格に差が少なく」「ペース設定がしやすく」「着替えやトイレなどの気兼ねがいらない」から。少しのミスが命とりとなる登山では、この「女性だけ」という選択が大切だったのです。
そんな田部井さんが初めてエベレスト登頂を果たした当時、すでに結婚しており、お子さんもいるママさん登山家でした。当然、田部井淳子さんの登山人生を支えてきたのは夫であり2人の子供たち。2歳年下の夫・田部井政伸さんと淳子さんは20代の頃からの山仲間でした。
夫ももともとは登山家だったのですが、登山中の凍傷で足の指を失い、登山家の道を断念したのです。海外での登山に挑戦しようとする妻の田部井淳子さんに対し、「子どもは産んで行けよ (笑)」と言うだけで、特に反対はせず裏で支え続けてくれていました。
死因とされる「腹膜がん」とは
1975年、「ママさん登山家」としてエベレストに女性として世界初の登頂を果たした田部井さんはその後、1992年には女性で世界初の7大陸最高峰登頂者となります。
2000年には「エベレストのゴミ問題」をテーマに研究を進め、九州大学の大学院・修士課程を修了。国連が定めた2002年の「国際山岳年」では日本委員会の委員長を務めていました。
その後、、、
病気がわかって以降も彼女は、「ベッドにいてもしょうがないから」と登山を続けたそうです。2007年には早期乳がんが見つかり乳房温存手術を受けました。2012年にはがん性腹膜炎を発症。2014年には脳腫瘍を患い、闘病を続けながらも山に登り続け、様々なメディアを通じて山登りの魅力を伝え続けてきました。
登山で雪崩に遭遇し命を落としかけた経験から、「まずは現状を受け止めること」「前向きに楽しんで生きていくこと」「周りに感謝することの大切さ」を学びました。こうした思いはがんになってますます強まっていったそうです。
70歳を過ぎても年に5~6回は海外登山に出かけ、最終的には60を超える国・地域の最高峰・最高地点に到達しました。
そんな田部井さんの死因とされている「腹膜がん」は、卵巣がんに似た病気で、症例数はあまり多くないようです。
腹膜がんは卵巣がんや卵管がんと同様に検診が確立されておらず、腹腔内の病気であるため、早期では症状が出ないという特徴があります。進行すると腹部膨満感(お腹が張った感じ)、腹腰痛、不正出血、排便の異常などが感じられます。
治療法としては全身化学療法が最も有効とされているのですが、進行してから見つかることが多いため、完治が困難なことも多いようです。
バイタリティ溢れる女性
人知れぬ苦労をしてきた田部井さんは2013年、プライベートでネパールのエベレスト街道をトレッキングしていました。実はこのとき、前年に「腹膜がんが見つかり余命3カ月」と診断され手術を受けた後だったのですが。。。
そんなバイタリティーに溢れ、登山家という枠に収まりきれない活躍ぶりを見せていた田部井さんは、エベレスト初登頂者のエドモンド・ヒラリー卿に頼まれ、山岳環境保護団体「日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(HAT-J)」を設立し代表を務めていました。
子育てや仕事で忙しい20~40代の女性のための山の会「MJリンク」もつくり、山でも街でも着られるアウトドア・ブランド「JUNKO TABEI」は女性に大人気!エッセーや山岳紀行の著書も多く、趣味では水泳やシャンソンも……。
田部井さんの言葉
「未知を楽しむ。それが登山。そして人生」
「仕事も登山も、窮地に陥ることは必ずあります。準備や計画はもちろん大切ですが、それでも不測の事態は起こる。そのときに、目の前の困難をいかに前向きに乗り越えられるかで人の真価が問われるのだと思います。」
「辛いな、困ったな、と思うときほど周りを見るようにするといい」
「エベレスト登頂当時、長女は3歳。これから子育てにお金がかかるし下山中には帰国したらどこに就職しようと考えていました。ところがそれをある人に話したら、エベレストに登ったんだからあんたを雇う人はいないよと言われてものすごくショックだったことを覚えています。」
「高山病になると気分が沈みがちになる。歌ったり会話をしたりすれば酸素をよく取り込め症状が軽減する」
「命に関わることはいくら責められてもケンカになっても、やめると判断したときはやめなければいけない。そういうとき隊長って孤独だと思います。誰も味方してくれなくても、ダメなものはダメと言わなきゃいけないですから。」
「山での遭難に比べたら、がんの治療の方が恵まれている」
「がんと診断された直後から、患者は自分の病気を理解し、様々な情報を取捨選択する人生が始まります。3人に1人のくじが当たったのよ。宝くじのような、当たって嬉しいくじじゃなくて残念ネ」
まとめ
小四の時に初めて山に登った淳子さん。
見渡す限り6000~8000m級のヒマラヤの高峰に囲まれた神々しい風景は「想像をはるかに超えるもの」でした。
2016年9月に開かれた77歳の喜寿を祝う席ではだいぶ痩せていらっしゃいましたが、歌を歌って皆を楽しませようとして常に明るかった田部井さん。亡くなられたのはその1か月後のことでした。
女性が自分の仕事を持つとか、夢や好きなことを追うのが今以上に難しかった時代に田部井さんが成し遂げたことは本当に素晴らしいことだと思います。
田部井さんにとっての人生は「山」でしたが、皆さんも諦めなければきっと「自分がやりたいこと」が叶うのではないでしょうか。彼女に習って、目の前の困難を前向きに乗り越えていこうじゃありませんか!