神の嘆き (哀)

「キリスト教弾圧」「島原の乱」からの世界遺産

 

隠れキリシタンたちが禁教期に密かに信仰を続けて育んだ「宗教に関する独特の文化」「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本県) として世界遺産登録されることとなりました。

歴史を振り返ってみると、マルティン・ルター (ドイツ人) が宗教改革 (16世紀)を起こしたことで 、ローマ・カトリック教会からプロテスタントが分離して誕生。「このままではプロテスタントの勢力に飲み込まれてしまう」と危機感を抱いたカトリックが世界シェアを広めるためにイエズス会を創設したことから日本にもキリスト教が伝来することになるのです。

 

1549年、スペインのイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは、中国大陸で布教活動を行うついでに立ち寄った日本にキリスト教を持ち込みます。このことが、日本の歴史に大きな影響を与えるのです。

 

 

それから数十年後。。。

 

長崎県の島原半島では「島原の乱」(1637~1638) が勃発。これは江戸時代初期に起こった日本史上最大規模の一揆で、本格的な内戦…とも言われています。乱のきっかけは圧政 & 重税でしたが、勃発後は「キリスト教」が一揆の拠りどころとなりました。

 

 

そして「島原の乱」鎮圧後、ポルトガル人は追放され、日本は「鎖国」へと突入していくのです。

 

  ちなみに、カトリックとプロテスタントは同じキリスト教ですが、プロテスタントは「どこでもお祈り(ミサなど)できる」、カトリックは「お祈り場所として教会が必要」という大きな違いがあることを覚えておきましょう。

 

 

長崎では、「キリスト教の伝来」 → 「繁栄」 → 「激しい弾圧」 →  「250年もの潜伏」・・・そして「奇跡の復活」…と世界に類をみない布教の歴史 (激動の数百年間) を感じることができます。

以下で、その流れをもう一度おさらいしておきましょう。

 

 

 

残忍極まりないキリスト教の弾圧

ある時、ローマ教会に一つの報告がもたらされます。それは、ポルトガルのイエスズ会が日本に派遣していたクリストファン・フェレイラが長崎で「穴吊り」の拷問を受け棄教を誓ったということ。

(当時、日本における布教活動は非常に困難なものでした)

 

その後、1597年には豊臣秀吉の命令によって長崎で26人のカトリック信者が磔の刑に処せられました。これを機に、各地であまたのキリシタンが家を追われ、拷問を受け、虐殺され始めたのです。

 

 

しかしながら、どんなに拷問を受けても棄教しないクリスチャンも多かったようで、、、

 

1629年、長崎奉行の竹中卯女は島原領主・松倉重政の勧めで、雲仙地獄の熱湯で彼らを拷問にかけたとする記録が残っています。徳川幕府がキリシタンに拷問を加えたのは、殺すことよりも 転向させることが主目的であり、まず転向させ、転向しない者は殺すことにしていたのです。

拷問13日、飲まず食わず、そして眠ることもできない状態で痛めつけられ、傷だらけの体になった信者たち。よくもこんな残酷な手段を思いついたものだと寒気が走らずにはいられない地獄絵だったそうな。。。

 

 

 

 

「キリスト教禁止」の撤廃 in 明治時代

1858年 (江戸時代末期) 、日米修好通商条約によって日本の鎖国は解かれますが、開国した相手はアメリカ・イギリス・オランダ・ロシア・フランスの五カ国。このうちフランスはカトリックだったため、日本に貿易にやって来たフランス人たちがお祈りできる場所が必要。

ということで1865年長崎に大浦天主堂 (日本最古の現存するキリスト教建築物) が作られました

 

 

(それまで、隠れキリシタンたちは250年もの間、指導者を欠いた状態で仏教徒のフリをしながら隠れて生きてきました)

 

「やった〜!これからは堂々とキリスト教を信仰できるよ!」・・・そう思ったのもつかの間、明治期になっても隠れキリシタンたちは拷問にかけられ、命を落とし続けることとなるのです。

しかしながら明治4年、岩倉具視率いる使節団が「不平等条約」改正のため欧米に渡った際、「キリスト教を迫害するような野蛮な国とまともな話ができるか!」と言われガッカリ…

これをきっかけに、「キリスト教の禁止」が撤廃されることとなったのです。

 

 

 

 

浦上天主堂に原爆が…

明治から大正にかけて、30年もの歳月をかけて作られた浦上天主堂 (1914年完成、1959年再建) は、原爆の爆心地からわずか500mしか離れていませんでした。当時「東洋一美しい教会」と称されていたこの教会は、残念ながら原爆により壊滅。。。

1945年8月9日11時2分。長崎市に原爆が投下され、浦上天主堂は一瞬のうちに爆風と火災で崩壊。敷地内にあった聖人像などの石像は一部を残してそのほとんどが大破してしまいました。

 

 

マリア像も教会とともに焼失したと思われていたのですが、戦後、焼け跡を訪ねた神父によって頭の部分だけが発見。現在、マリア像は浦上天主堂の一角に作られた小聖堂に静かに安置されています。

 

 

祭壇に描かれている「平和」の文字は、浦上キリシタンが迫害時に縛られて見せしめにされた柿の木の根っこを使って書いたと言われています。

 

  傷ついたマリア像は、身をもって戦争の恐ろしさ、原爆の脅威を訴え続けています。平和の使者として1985年にバチカンで展示されたほか、2000年には旧ソ連のチェルノブイリ原発事故の被害地で、2010年被爆65年ではバチカン、スペイン両国で展示されました。

 

このように、「弾圧」&「戦争」と戦ってきたキリシタンの歴史が長崎にはあります。

 

 

 

 

隠れキリシタンと潜伏キリシタンの違い

隠れ  (潜伏) キリシタンとは、江戸幕府が禁教令を布告してキリスト教を弾圧した後も、密かに信仰を続けた信者たちのことを言います。彼らは主に中国製の慈母観音像を聖母マリアに見立てて信仰の対象としていました。

 

ここで敢えて「隠れキリシタン」と「潜伏キリシタン」を区別するならば、、、

前者は強制改宗により仏教を信仰していると見せかけ偽装棄教した信者、後者は1873 (明治6) 年に禁教令が解かれ潜伏する必要がなくなっても、江戸時代の秘教形態を守りカトリック教会に戻らなかった信者のこと。。。と言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

島原の乱と天草四郎

「島原の乱」の舞台となった原城(はらじょう)は長崎県南島原市にあります。有明海に面した梯郭式平山城で、国の史跡に指定されています。最初の築城は1496年。肥前の戦国大名・有馬貴純が本拠地である日野江城の支城として「原城」を築いたようです。

1616年、松倉重政が日野江城に入城。この時松倉は島原城の築城を開始したため、日野江城と原城は廃城となり、石垣や構築物は島原城に転用されました。

 

しかし、1637年から1638年にかけて「島原の乱」が勃発し、支城に過ぎなかった「原城」が再び注目を浴びることとなるのです。

島原藩の領民と、肥後・天草諸島の領民が日本史上最大規模の一揆「島原の乱」を起こします。きっかけは圧政と重税に苦しみ耐えかねてのこと。。。

 

天草はキリシタン大名・小西行長、島原はキリシタン大名・有馬晴信の領地だったこともあり、弾圧を受けていたキリシタンもこの一揆計画に加わります 。もともとはキリシタンが起こした一揆ではありません。そして、最初から原城に籠ったわけではありません。

島原の乱の首謀者たちは、キリシタンの間で人気だった当時16歳の少年・天草四郎 (本名:益田四郎時貞)を一揆の総大将として蜂起。

 

 

そして、有馬村のキリシタンたちを中心に、代官・林兵左衛門を殺害したのです (天草四郎は小西行長の家臣の子孫とも言われています)。

 

一揆勢は島原城下を焼き払い、天草でも天草四郎が蜂起して本渡城などを攻撃。また、唐津藩兵が篭った富岡城も、残すは本丸のみというところまで、、、陥落寸前となっています。

こうした反乱を知った江戸幕府は軍隊を派遣。これに対して、援軍が期待できない一揆勢は有明海を渡って島原半島の廃城・原城に集結し篭城したのです (正確な数は不明ですが、37000人と言われています)。

 

一揆勢は原城を修復し、藩の蔵から奪った武器・弾薬・食料を運び込み、鉄砲は2千丁あったとされています。なお、一揆勢は全国各地に使者を派遣しており、キリスト教に縁深いポルトガルの援軍を期待していた伏しもあるようです。そのため、海辺の原城にて籠城したとも考えられています。

 

原城跡

 

幕府軍の原城攻略は何度も失敗。。。

事態を重く見た徳川幕府は、最終的に12万5800もの兵で原城を包囲します。この時、甲賀忍者が原城内に潜入し兵糧が残り少ないことを把握。この結果、老中・松平信綱は強行突破ではなく兵糧攻めにすることを決断したのです。

 

海からはポルトガル船2隻を使って砲撃を行い、キリシタンが僅かに期待していた「ポルトガル」が幕府側についたことをアピール。このことが一揆勢の士気を低下させました。しかしながら、何度となく行われた降伏の催促を天草四郎らはすべて拒否。

 

「これ以上包囲が長引けば、幕府の威信に関わる」

そう考えた老中の松平信綱は総攻撃を行うことを決意。

 

この総攻撃で原城は落城し、天草四郎らは討ち取られ、島原の乱は鎮圧されるに至るのです。反乱軍への処断は苛烈を極め、老若男女約37000人はすべて首を討たれ、生き残ったのは内通者だった山田右衛門作(南蛮絵師)ただ一人だったと言われています。

天草四郎ら首謀者の首は、長崎・出島にあるポルトガル商館前に晒されました。

 

 

この後、

 

島原藩主の松倉勝家は、領民の生活が成り立たないほどの年貢を取り立てた罪と一揆を招いた責任を問われて改易 (所領没収)となり、のちに斬首となっています。

天草を領有していた寺沢堅高も責任を問われ天草領地は没収されましたが、彼はその後精神異常をきたして自害し寺沢家は断絶。佐賀藩主・鍋島勝茂も6ヶ月間の閉門処分となっています。

 

原城は幕府によって徹底的に破却され、一国一城令で廃城となっていた全国の城も、これを機に破却が進められたといいます。

原城跡からは、発掘調査で「惨殺された一揆軍の大量の遺骨」「鉛の弾丸」「クルス」のほか「万人坑」などが出土しています。

 

さて、原城 (世界遺産) へのアクセスですが、雲仙普賢岳のある島原半島の南側に位置していますので遠い印象がありますが、長崎空港から車で2時間とさほど遠くないところにあります。

 

 

 

 

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」

長崎におけるキリスト教の伝来と繁栄、激しい弾圧と250年もの潜伏、そして奇跡の復活…。世界に類を見ない布教の歴史を物語る「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」は、ユネスコの世界遺産に登録と相成りました。

弾圧の背景があることもあって、「アウシュビッツ」などと同様「負の遺産」とも言えますが、史実をしっかりと見つめ直し、後世に語り伝えていかなければならない歴史の一つと言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

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