「日本のマチュピチュ」「天空の城」として世界的にも脚光を浴びている兵庫県の竹田城。その雲海に浮かび上がる城跡は幻想的かつ神秘的です。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」のロケ地として有名になったことから一気に火がつき、瞬く間に人気観光スポットとなりました。
また、竹田城同様、雲海の中に佇む「本物の天守閣が残っている」備中松山城 (岡山県) も神秘的!「(天守閣もあるし) こちらが本当の天空の城だよ」という声もあります。
他にも、越前大野城 (福井県) なども「天空の城」として知られています。
一方で、愛媛県にある松山城も非常に魅力的なお城です!こちらは日本に12か所しか残っていない「江戸時代以前に建造された天守を有する城郭」のひとつ。そんな松山城は近年、道後温泉とともに「美しい日本の歴史的風土100選」に選ばれました。
このように、日本各地に点在する歴史とロマン溢れる建造物「城」に目を向けてみると、思った以上に素敵な観光スポットであることがわかると思います。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点に使った名護屋城跡 (佐賀県) や滝廉太郎の荒城の月のモデルになったとされる岡城趾 (大分県) なども、それぞれにスポットを当ててみてみると、本当に魅力満載なのです。
例えば名護屋城跡は、実際に訪れてみると「城の規模が想像以上」「広さに圧倒される」といった感想を持つ方が多いようです。事実、その城の面積は大阪城に次ぐ規模を誇っていたとされており、見る者を圧倒する迫力があります。
名護城博物館では充実した資料を無料で見学することが可能なので、「秀吉の力がどれほどのものだったのか」「朝鮮との関わりはどうだったのか」などなど、歴史を深く知ることもできます。こうして学びと見学の相乗効果により、歴史のダイナミックさを実感されてみてはいかがでしょうか。
というわけでここに
日本の名城18選をまとめてみました。「他にも良い城があるじゃないか」という声があるかもしれませんが、とりあえずは代表的かつ人気の18城を掲載してみました。
この記事を読んだ後は「さっそく●●城に行ってみよう!」と思うこと間違いなし、です (笑)
★ 姫路城 (兵庫県)
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天を舞う白鷺のように見える姫路城は別名白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)ともいわれ、 建築技術の粋を極めた傑作として1993年に法隆寺とともに日本で初の世界文化遺産に登録されました。
現在の姫路城は、徳川家康の次女督姫を妻とする池田輝政により建てられたもので、関ヶ原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)から8年の歳月をかけて建設されました。それ以前には、羽柴秀吉が20年前に建てた三層の姫路城が建っていましたが、これは取り壊され、5層7階の天守と新装されたのです。
そんな姫路城には数々の伝説が残っています。聡明で美しい姫といわれた徳川家康の孫娘である千姫の物語や、宮本武蔵の妖怪退治、播州皿屋敷お菊井戸など。
連立式天守をはじめとする独特の建築構造と白鷺城とも呼ばれる美しいフォルム、要塞として精巧な意匠と工夫の凝らされた巧みな機能、そして、城全体がよく保存され、内曲輪の城郭建築がほぼ完全に当時の様式を伝えているところにこのお城の人気の理由があるのです。
まだ訪れたことのない皆さん、ぜひ一度生で姫路城を拝んでみてください!
☆ 松本城 (長野県)
《続きを読む》松本城は戦国時代の永正年間 (1504〜1520年) に造られた深志城が始まりで、現存する五重六階の天守の中では日本最古。黒と白のコントラストがアルプスの山々に映えて見事な景観です。
この天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されています。日中の光景も圧巻ですが、夜のライトアップされた姿も趣きがあっておすすめです。
ちなみに、この城にも伝説がひとつあります。
貞享騒動の首謀者・多田嘉助が刑に処せられる際、天守を睨んで絶叫したことで怨念が生まれ、瞬時に天守が傾いたとされています。ただこれは、城が傾き始めた明治になってから作られた話です。
天守の傾きの本当の原因は、軟弱な地盤と天守台の中に埋めこまれた16本の支持柱の老朽化のようです。
余談ではありますが、長野県を訪れた際には (ついでと言っては何なのですが) 日本三大桜の名所と言われている高遠城址公園にも足を運ばれてみてはいかがでしょうか☺️
★ 名古屋城 (愛知県)
《続きを読む》太平洋戦争の戦災で焼失するまでは「城郭建築で初めて国宝に指定された城」として知られていた名古屋城。今では屋根に乗る金鯱(きんのしゃちほこ)がシンボルとして有名ですね。
そもそもこのお城は、織田信長誕生の城とされる那古野城 (なごやじょう) の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために築城したものとされています。以降は、徳川御三家の一つである尾張徳川家の居城として明治まで利用されてきました。
大阪城、熊本城とともに日本の三名城に数えられています。残念ながら、1945年の大空襲によりその大部分を焼失してしまいましたが、私たちはその復元された姿を見ることができます。
天守閣の中は歴史テーマパークとも言われています。実物大の金鯱 (撮影スポット) あり、刀や鎧などの展示物あり、籠乗り体験コーナーあり。
また、天守閣に入る前に見ることができる天守の石垣は加藤清正が担当だったと言われています。天守閣の最上階からは名古屋の街を一望できますし、当時の城下町を再現した場所を歩くことだってできるんです。堀には鹿がいますし、「名古屋おもてなし武将隊」の演武を見ることもできます。
演武では、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉、加藤清正、前田利家、前田慶次など、有名な武将たちが揃い踏み!殺陣あり、舞あり、太鼓あり!各武将の性格や表情もけっこう仕上がっており、楽しむことができます。
☆ 大坂城 (大阪府)
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「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもある大坂城は、安土桃山時代に豊臣秀吉によって築城されました。ただし、現在私たちが見ることのできる大坂城は江戸時代に徳川家が新築 (修築) したものです。
1598年に秀吉が亡くなり、1600年の関ヶ原の戦いで石田三成が破れて以降の豊臣氏は散々な目に遭います。所領は220万石の大大名から65万石程度の普通の大名にまで転落。しかしながら、遺児の豊臣秀頼はその後も豪華絢爛な大坂城を居城とします。
しかし1614年に勃発した大坂冬の陣の敗北によって、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまいます。翌1615年の大坂夏の陣ではついに落城し、豊臣氏は滅亡。
その後、豊臣色を払拭する大坂城修築工事によって一新されますが、江戸時代にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返しています。
また、明治期には城内の敷地を陸軍用地に転用したため、太平洋戦争ではアメリカ軍の爆撃目標となりダメージを受けました。
このように、なんだかんだと損傷 & 修復を繰り返してきた大坂城。その歴史を感じながら散策してみてください。
★ 松江城 (島根県)
《続きを読む》別名・千鳥城として知られる松江城は江戸時代に建てられた平山城です。明治時代の廃城令によって存城 (陸軍所管) となり、結果として今もその勇姿をとどめています。
ちなみにこの松江城には人柱伝説が残されています。
天守台の石垣がうまく築けず、何度も何度も崩れ落ちていました。こうした中、「人柱がなければ工事は完成しない」と工夫たちが言い出します。そこで盆踊りを開催し、その中で最も美しくもっとも踊りの上手な少女が生け贄とされたそうな。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたとされています。
その後、石垣は見事でき上がり城は無事落成したのですが、城主の父子が急死。人々は「娘の無念の祟りだ」と恐れ、天守は放置され荒んでいきます。その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣く声が聞こえたという伝説が今も残っています。
☆ 弘前城 (青森県)
《続きを読む》関ヶ原の戦いで東軍についた津軽為信は、1603年に築城を開始します。しかし、翌年死亡したため築城は中断。その後、1609年に2代目の信枚が築城を再開させ、わずか2年足らずで完成させます。
この城も、火災 (落雷) により焼失した歴史もありますが、その後修復されます。そして現在、城門や天守閣は当時の規模のまま残され重要文化財に指定されています (東北で唯一の現存天守)。
どこのお城もそうですが、この弘前城も四季の移り変わりが見事の一言。どの時期に訪れてもそれぞれの季節を存分に楽しむことができます。
2017年には本丸石垣の解体修理で、天守を支える石垣の四隅にイカのような形をした巨大な石が組み込まれていたことがわかりました。弘前市はこの石を「いかすみ石」と命名。ちょっとしたミステリーですねー。
★ 彦根城 (滋賀県)
《続きを読む》他のお城同様、国宝に指定されている彦根城は天守をはじめ、重要文化財の各櫓、下屋敷の庭園である玄宮園、内堀・中堀などが当時の姿を留めています。全国的に見てもきわめて保存状態のよい城跡で、年間を通じて多くの人々が訪れます。
彦根城では彦根市のマスコット「ひこにゃん」のパフォーマンスを見ることもできます。
そんな彦根城では、博物館で井伊家伝来の貴重な史料を見ることができたり、人力車や屋形船を楽しむこともできます。
江戸時代初期に井伊氏の拠点として置かれた彦根城は、明治時代の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存しています。姫路城などとともに遺構をよく遺している城郭で、1992年に日本の世界遺産暫定リストに掲載されましたが、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られています。
☆ 島原城 (長崎県)
《続きを読む》長崎県南東部の島原半島は、熊本県の天草諸島とともに雲仙天草国立公園を構成する風光明媚にして、南蛮文化とキリシタン受難の歴史に彩られた地域です。
その中心「島原」は穏やかな内海に面した花と湧水の町。島原藩時代の政庁「島原城」には五重の天守と三基の櫓が復元され、往時の姿を偲ばせています。
島原城の築城は、徳川家康の配下で関ヶ原合戦や大阪の陣で軍功を上げた松倉重政により行われました。1616年に大和五条から島原に入封し、1618年から7年もの歳月とおびただしい労力を注ぎ込んでついに完成させたのです。
五重の天守と四九基もの隅櫓が林立する大城郭で、当時4万石の小大名には過分な城でもありました。そのための重税とキリシタン弾圧により島原の乱 (1637年) が勃発。この江戸期最大の内戦を起こした責めを負い、松倉氏は2代で断絶。
その後は高力、松平など徳川譜代の大名により藩庁として存続、城下はさらに整備され明治維新を迎えています。維新後は天守、櫓とも解体されてしまいましたが、堀や石垣はかなりの部分が当時の姿を残しています。
1960年以降、櫓や五重の天守、長塀などが復元され島原藩時代を偲ばせる観光の要となっています。本丸を囲む堀を見下ろしてみると蓮の葉の緑が一面に広がっており、連なる高石垣が刻む旋律美と陰影、青空とコントラストをなす天守の白。まさに、日本城郭の美しさが凝縮された姿に一幅の絵を見る思いがします。
天守最上階からは城下と島原湾、さらに向こう側の熊本を展望することができます。
★ 首里城 (沖縄県)
《続きを読む》首里城は、琉球王国の幾多の攻防を伝える歴史の証人でもあります。残念ながら、1945年の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、現在はわずかに城壁と建物の基礎の一部が残されているだけ。
ただしその後、琉球大学の移転に伴い、1980年代から本格的な復元に着手されました。2000年、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されましたが、登録は「首里城跡」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではありません。
そんな首里城の創建年代は明らかではありません (発掘調査からは14世紀と推定されています)。おそらく、13世紀末〜14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様成立したものです。
尚巴志が琉球王朝を立てると、首里城は王家の居城として用いられるようになり、同時に首里は首府として栄えていきました。ただ、この首里城もその歴史の中において何度か焼失しています (その度に修復)。
そんな首里城は、政治・軍事の拠点であるとともに、琉球有数の聖域でもあります (宗教的な役割も大きいのです)。
☆ 岡山城 (岡山県)
《続きを読む》天下人となった豊臣秀吉に身内並みに厚遇されて大大名となった宇喜多秀家が、秀吉の指導を受けて築城し、8年の歳月を費やして建造され1597年に完成した岡山城。
西向きの城構えのため、旭川を城の東背後を流れるように改修し、天然の外堀に活用しています。この時代の特徴から外観は黒く、後の時代には「烏城 (うじょう)」とも呼ばれています。秀家はこの城を戦の施設としてだけでなく、領国内の商人や職人を集めて治世の府とし、城下町の整備を行っています (関ヶ原合戦で敗軍の将となった秀家は、流配先の八丈島で城主よりも長い期間の余生を過ごしました)。
その後、秀家に代わって城主となった小早川秀秋は城域を拡張して新たに外堀を設け、その外に寺町を配置しました。外堀の掘削は二十日間の突貫工事であったため、「二十日堀」とも呼ばれています。さらにその後は池田氏の手に渡り、整備・拡張が行われました。
岡山城は、歴代城主の下で岡山の町並みの発展を見続け、近代都市の礎となったのです。ちなみに隣接する大名庭園・後楽園は、水戸の偕楽園、金沢の兼六園とともに、日本三名園として並び称されています。
★ 熊本城 (熊本県)
《続きを読む》熊本城は日本三大名城のひとつです!人によっては「このお城が一番かっこよくて大好き」という方もいるほど。特に桜の時期に見る熊本城はダイナミックで非常に美しいと評判です。
2016年4月に起こった熊本地震の被害を受け、現在復旧作業中の熊本城。復旧には長い時間がかかるそうですが、少しでも早く復旧することを心から祈るばかりです。
ところで、この熊本城は安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正によって築城されたわけですが、一大名の城としては日本一と称されています。
細川氏の居城となった後も盛んに改築され、明治時代の初期までは立派な佇まいを誇っていたのですが、西南戦争 (1877年) で焼失したりもしました。また、1889年の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分もありますが、基本的な部分は江戸期のままです (昭和時代に入って復元された部分もありますが)。
また、ここ熊本城は日本さくら名所100選に選定されています。
☆ 広島城 (広島県)
《続きを読む》1588年、毛利輝元は豊臣秀吉の招きにより大坂城や聚楽第を訪れ、近世城郭の重要性を痛感して新しい城を造ることを決意したと言われています。その結果、大坂城や聚楽第を参考に、秀吉の側近で築城の名手である黒田如水にも手伝ってもらい築城されました。
時は流れ、、、
1864年、第一次長州征討の際、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となった広島城。また、戊辰戦争になると広島藩は官軍として戦ったため、城に被害はありません。つまり、築城から江戸時代の間、この城は戦の舞台とはなっていないのです。
一方で、明治期に入ると解体や火災があり、さらにはアメリカ軍の攻撃により、江戸時代の頃の姿は損なわれてしまいました。
★ 二条城 (京都府)
《続きを読む》二条城は江戸時代に造営された城で、1994年に『古都京都の文化財』の中の一つとしてユネスコの世界文化遺産に登録されました。今では観光地化されていますが、実は大政奉還の舞台となった場所で、とても重要な城なのです。入るだけで歴史を感じることができるのではないでしょうか。
ちなみに、日本の歴史において「二条城」と呼ばれるものは複数あります。過去に遡ってみると、室町幕府の足利尊氏〜義満 が二条に屋敷を構えていたため、当時は将軍家の屋敷を「二条城」と呼んでいました。
そして、徳川家康が京に滞在中の宿所として造った城が現存する「二条城」。つまり、徳川幕府の京都の拠点がここ二条城なのです。その後15代将軍慶喜はここで大政奉還を行うことになるのですが。
そのような歴史的背景を思い浮かべながら、世界遺産の二条城を訪れてみてはいかがでしょうか。
☆ 犬山城 (愛知県)
《続きを読む》国宝・犬山城は室町時代の天文6年(1537)に建てられ、天守は現存する日本最古の様式とされています。周辺には犬山城下町の古い町並みや、多くの観光施設があります。信長・秀吉・家康が奪い合い、歴史の荒波を生き残った犬山城。
木曽川のほとりの小高い山の上に建てられた天守閣からの眺めはまさに絶景です。ちなみに別名の白帝城は、李白の詩にちなんで荻生徂徠が命名したと伝えられています。
この犬山城は、前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が改修して築いた城であり、その後豊臣政権の時に石川貞清が改修し現在のような形となりました。
ここは、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点となっています。
その後、明治の廃藩置県で廃城となり、天守を除いてほとんどが取り壊されています。さらにその後は個人所有のものとなったり国宝に指定されたりしてきましたが、2004年、個人所有では維持が非常に困難ということで財団法人が管理していくことになりました。
そんな犬山城は2017年、落雷により天守の鯱が大きく破損してしまいました。
★ 江戸城跡 (皇居)
《続きを読む》
徳川幕府の公文書では、享徳の乱に際して1457年に築城された城が江戸城のはじめとされています。その後、このしろの所有者は度々変わりますが、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に開城。その後、秀吉から家康に与えられました。
ただ、この時の江戸城は築城から時を経ていたこともあり、かなり荒れ果てていたそうです。
それでも、家康が天下をとり江戸を日本の中心地とすることに決定してからは江戸城は大きく生まれ変わります。以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能していったのです。
1657年に起きた明暦の大火で焼失するまで、江戸城には天守がありました。それも、全高60mもある日本最大級の大天守だったのです。当然、江戸幕府は大火の後すぐに江戸城の復興に着手し、天守も再建するつもりでした。
ところが、会津藩主・保科正之が天守再建に待ったをかけたのです。保科正之は三代将軍・徳川家光の異母弟にあたる人物で、家光の死後、四代将軍となった甥っ子・家綱の後見人として強い発言権を持っていました。
「天守はもはや無用の長物である」と。
時は流れ、江戸城本丸は1863年の火災で焼失したまま再建されず、西の丸に機能を移したまま明治維新を迎えます。そして1868年、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、東京城 → 皇城と改名。1948年には皇居と改称されるのです。
☆ 福岡城跡
《続きを読む》江戸時代初期、関ヶ原の戦いで功績のあった外様大名の黒田長政 (豊臣秀吉の軍師) が、博多を望むこの地に福岡城を築きました。というわけで、2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が高視聴率で非常に好評だったことからわかるように、黒田官兵衛は歴史上のヒーローであり人気者です。
天才軍師・官兵衛のファンであれば一度は訪れるべき城でしょう。
ちなみにこの城は、黒田官兵衛 (如水)、長政ともに従軍する秀吉の朝鮮攻めの際に、日本軍が攻めあぐんだ朝鮮の難攻不落の城・晋州城をモデルとして造られたそうです。そんな城ですから、福岡城は必然的に実践本意の攻められにくい城なのです。
名城として名高い加藤清正の熊本城をも凌ぐと言われる巨大城郭を持ち、九州一の規模を誇るとされています。博多に遊びに来た際には、夜の中洲で飲み遊ぶだけでなく、福岡城跡を散策されてみてはいかがでしょうか。
★ 会津若松城 (鶴ヶ城) (福島県)
《続きを読む》難攻不落の名城とうたわれた鶴ヶ城は、戊辰戦争で新政府軍の猛攻の前に籠城一ヵ月、城は落ちませんでした。その後、石垣だけを残して取り壊されたのは明治7年のこと。
そんな会津若松城は、1384年に葦名直盛が館を造ったのがはじまりとされています。諸説ありますが、遅くとも15世紀半ばまでには黒川城とその城下が成立していました。以後、代々蘆名氏の城でした。
1589年、蘆名氏と戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視して蘆名氏を攻め、黒川城を手に入れるのですが、1590年に秀吉に臣従したのち、会津は召し上げられてしまいます。
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏で、1592年から大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備。その後町の名前は黒田から若松に改められ、その後天守が竣工されたのを機にこの城は鶴ヶ城となったのです。
ただし、地元では「若松城」と呼ぶ方もおり、全国的には会津若松城として知られています (鶴ヶ城は他の地にも存在するため)。
☆ 原城跡 (長崎県)
《続きを読む》原城は長崎県島原半島の南部に位置する、日野江城の支城として1496年、有馬貴純によって築かれた城です。その後、有馬氏が日向国延岡城に転封となった後、1616年に松倉重政が日野江城に入城しますが、一国一城令の影響もあり、不便な日野江城を放棄し島原城を建築。この際に、原城も廃城となり、石垣や構築物は転用されました。
その後、1637年に島原の乱が勃発します。その原因は、島原藩主の松倉重政・勝家父子による重税と過酷なキリシタン弾圧。
やがて一揆の群衆は天草の一揆軍と合流し、3万7千人が廃城となっていた原城に立て篭もります。小西行長の家臣の子孫とも言われていた天草四郎を総大将とし、組織だった籠城戦を展開して幕府軍と戦闘を繰り広げたのです。
剣豪・宮本武蔵 (中年期) も幕府軍の一員として城攻めに参加していましたが、城側からの落石攻撃で負傷し途中棄権したと言われています。
しかしながら、3ヶ月にも及ぶ籠城で弾薬・兵糧が尽き果ててしまいます。対する幕府軍は、1,000人の戦死者を出しながらも次々と新手を投入し、ついに1638年4月11日から12日にかけての総攻撃で一揆軍を全滅させます。
幕府軍の記録によると、一揆軍の中でただ一人、幕府に内通していた山田右衛門作だけが助命され、その他の人々は老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたといいます。
この時の様子を、幕府軍の総大将であった松平信綱の子・松平輝綱が『島原天草日記』に以下のように記しています。
「(前略)剰つさえ童女の輩に至りては、喜びて斬罪を蒙むりて死なんとす、是れ平生人心の致すところに非らず、彼宗門に浸々のゆえ也」
つまり、一揆軍は殉教を重んずるキリシタンの信仰ゆえ、全員が喜んで死を受け入れたそうなのです。
この島原の乱終結後、原城は再び一揆の拠点として使用されることのないよう徹底的に破壊されました。そして、虐殺された一揆軍3万7千人の遺体は廃墟となった原城の敷地内にまとめて埋められたのです。その一方で、島原藩主の松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から、大名としては前例のない罪人としての扱いである斬首に処せられたと伝えられています。
原城跡地には、天草四郎時貞の銅像が立っています。
生涯については不明の点が多いのですが、生まれながらにしてカリスマ性があったといいます。また、経済的に恵まれていたため、幼少期から学問に親しみ、優れた教養があったようです。様々な奇跡(盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海面を歩いたなど)を起こしたという逸話もあります。
いずれにしても、戦場では十字架を掲げながら軍を率いたとされている時貞はまだ10代半ばの少年であり、実際に乱を計画・指揮していたのは浪人や庄屋たち。時貞は一揆軍の戦意高揚のために、彼らに利用されていたに過ぎないと見られています。
そんな悲しい歴史の背景をしっかりと学んだ上で、まもなく世界遺産に登録される予定の原城跡を散策されてみてください。
最後に、犠牲者の冥福を心よりお祈り申し上げます。