「ノーベル文学賞受賞」カズオ・イシグロ氏の戦後長崎に込める思い

 

2017年に「ノーベル文学賞」を受賞した日系イギリス人の石黒一雄 (カズオ イシグロ) さんは1954年に長崎で生まれ、5歳の時に父 (海洋学者) の仕事の関係で家族とともにイギリスに渡航。

父は上海生まれ。母は長崎原爆投下時 (10代の頃) 爆風で負傷。

 

ちなみに、2016年に女優の綾瀬はるかさん主演でテレビ放送されたドラマ「わたしを離さないで」の原作はカズオ・イシグロさん。本作はイギリスで2010年に映画化されましたし、日本では2014年に蜷川幸雄演出で舞台化もされました。

それほどに素晴らしい原作なのですが、なぜかドラマの視聴率は振るわず・・・きっと、原作は良くても脚本・演出がイマイチだったのでしょうね。

 

 

 

作家よりミュージシャンになりたかった


 
そんなイシグロさんは受賞の感想を聞かれ、「ボブ・デュラン (2016年にノーベル賞受賞) の次に受賞なんて素晴らしい!大ファンなんです。」と笑みをこぼしていました。

著名な小説には「日の名残り」(1989年)や「私を離さないで」(2005年) などがあり、いずれも映画化されています。そして、これまでの英文学への功績を讃えられ1995年には大英帝国勲章を授与されており、一連の作品は世界40カ国以上に翻訳されています。

 

しかしながら、青年期のイシグロさんが本当になりたかった職業は作家ではなくミュージシャンでした。デモテープをレコード会社に送ったこともあります。

今でも音楽は大好きで、ピアノやギターを楽しむほか、知人のジャズ歌手に歌詞を提供したりもしているようです。

 

 

 

 

イシグロ作品と夫人のローナさん


 
これまでに出版した長編小説は、英国に住む長崎出身の女性たちが登場する『遠い山並み』、戦前の思想を持つ日本人を描いた『浮世の画家』(1986年、ウィットブレッド賞受賞)、イシグロ氏の名を広く知らしめた『日の名残り』(1989年、ブッカー賞受賞)、コンサート・ピアニストが数々の偶然に出くわす『充たされざる者』(1995年)、『わたしたちが孤児だったころ』(2000年)、『わたしを離さないで』(2005年)、『忘れられた巨人』(2015年)など。

短編も数作あります。初期の小説には日本人がよく出てくるのですが、幼少時に日本を離れたイシグロさんにとって、登場人物の設定などは「想像」によるものだそうです。

 

そんなイシグロさんは、1980年代初期に英国籍を取得し、1986年に元ソーシャルワーカーの英国人女性ローナ・マックドウガルさんと結婚。イシグロさんは、職業作家になる前は複数の職に就いており、ロンドンやスコットランドでソーシャルワーカーとして働いていたこともあるようです。

そんな時に、ロンドンのホームレスを支援する団体でソーシャルワーカーとして働いていたローナさんと出会ったのです。

 

ローナさんは仕事上の良き相談相手でもあるようで、数年前に出版された『忘れられた巨人』では、書き始めて20~30ページ分溜まったところで「これはひどい。ゼロから書き直すべきよ。」と言われたとか。

そんな2人には一人娘のナオミさん (25歳の大学院生) がいらっしゃいます。どうやらナオミさんは「イギリスのEU離脱に反対」の考えを持っているようです。

 

 

 

 

「気がつくと日本について書いていた」

 

(以下、イシグロさんのインタビューにおける発言が続きます。お楽しみください。)

 

1979年の秋に私と出会っていたら、あなたは私の社会的地位を見定めることに苦労したかもしれないし、人種的な判別すら難しかったかもしれない。当時私は24歳。顔立ちは日本人のように見えたかもしれないが、当時英国にいた大半の日本人男性とは似つかず、肩まで伸びた髪と垂れるほどの口ひげを生やしていた。

その秋に、私はリュックとギター、そして持ち運び可能なタイプライターを持ってノーフォーク州ボクストンにたどり着いた。古い水車があり、平坦な農地が一帯に広がる小さな村だった。イースト・アングリア大大学院の創作過程への入学が認められたからだ。ロンドンでの活気に満ちた生活を離れ、私は小説家となるために異常なほどの静けさと孤独の中にいた。

実際には、私は20歳までにロックスターになるという確固とした人生計画を立てていた。小さな部屋に入居し、3~4週間が過ぎたある夜、私は気づくと新たな迫られたような意志で、日本について書いていた。第二次世界大戦末期の私の出生地、長崎についてだった。

 

 

 

 

私の中の日本


 

この時期を振り返り、(イギリスにとって) 日本は恨みある敵だった第二次世界大戦が集結してからまだ20年も経っていなかったことを思い出すと、このごくありふれた英国のコミュニティーが私たち家族を受け入れた寛大さ・寛容さには驚かされる。

第二次大戦をくぐり抜け、戦後に素晴らしい新たな福祉国家を築き上げたこの時代の英国人に対し、私が今も持ち続けている親愛、尊敬そして好奇心は、大部分がこの時期の個人的な体験からきている。

 

しかし一方で、 (この時期) 私たち家族は日本人らしい別の生活を送っていた。家では「別の規則」「別の期待」そして「別の言葉」があった。私の両親は、当初1〜2年で日本に帰国すると考えていた。実際、英国にきて最初の11年間、私たちは常に「来年には帰国する…」という状態にあった。

私自身、大人になったら日本に帰って暮らすのだろうと想定していた。両親は、私の日本人としての教育レベルを保つべく、様々な努力を施した。例えば、毎月日本から教材や雑誌などが届き、それらを夢中で貪り読んでいた。

 

 

 

 

忘却と記憶の狭間で葛藤


 

1999年、私は国際アウシュビッツ委員会代表のドイツ詩人クリストフ・ホイブナーの招待を受け、かつての (ナチスの) 強制収容所を訪れ数日間を過ごした。

現場を案内され、3人の生存者たちと非公式に面会。湿った午後のビルケナウで、瓦礫だらけのガス室跡の前に立った。私を招いてくれた人々は彼らのジレンマについて語った。

 

「これらの遺構を保護すべきか」「後世の目に触れるよう維持するため、新たにドームを造るべきか」「それらがゆっくりと自然に朽ち果て、何もなくなることが許されるべきなのか」・・・

「このような記憶をどうやって保存すべきか」「記憶を留めるために何を選択すべきなのか」「忘却し前に進むためによりよいのはいつなのか」・・・

 

この時私は44歳。その時まで、第二次世界大戦の恐怖などは親の世代に属するものだと考えていた。しかしながら、これらのとてつもなく大きな出来事を直に目撃した多くの人々は近い将来いなくなる…ということがふと頭に浮かんだ。

それから何が起きるのか。記憶を留めることは私たちの世代の責任になったのか。私たちは大戦を経験していないが、人生が大戦によって消え去ることなく形作られた親たちに、少なくとも育てられた。

 

私には今、多くの人に知られた物語の語り手として、これまで気づかなかった義務があるのではないか。親の世代から私たちの次の世代に、できる限り未来へ記憶や教訓を伝える義務があるのではないか

 

 

 

 

平和に関する名言3つ ☆

 

🔵    平和は力では保たれない。平和はただ分かりあうことで達成できるのだ。

Peace cannot be kept by force; it can only be achieved by understanding.

(Albert Einstein)

 


 

🔵    自信を持って恐れることなく、私たちは努力を続けなければならない。人類絶滅の戦略に向かってではなく、平和の戦略に向かって。

Confident and unafraid,we must labor on – not toward a strategy of annihilation but toward a strategy of peace.

(J・F・Kennedy)

 


 

🔵    みんな平和について語るけど、誰もそれを平和的な方法でやってないんだ。

Everybody’s talking about peace, but nobody does anything about it in a peaceful way.

(John Lennon)

 

 

 

 

まとめ


 

イシグロさんのデビュー作  “A Pale View of Hills” (「遠い山並み」1982年) は、原爆投下を受けた長崎出身の女性の人生について書かれています。

“The Remains of the Day” (「日の名残り」) はアカデミー賞俳優のアンソニー・ホプキンスさんを要する映画作品になりました (1993年)。他にも、”Never Let Me Go” は国際的なベストセラー作品になっています。

 

ノーベル文学賞の受賞式に際して、イシグロさんは文学の重要性を強調。「良い文学があって良い読み手がいれば、世界の様々な壁を取り壊すことはできる」・・・と。

 

 

最後に、

イシグロさん。3人目の日本生まれのノーベル文学賞受賞者となられたことを心からお喜び申し上げます。

 

①  川端康成  (1968年)

②  大江健三郎 (1994年)

③  カズオ イシグロ  (2017年)

 

 

Love and Peace ☆