封建時代の日本には、サムライと忍者が存在していました。忍者 (忍び) の役割といえば、「敵軍に潜入」し「変装」し「情報収集」をすること。
つまり、忍者は「密偵術」「心理学」「火術」「呪術」「薬学」「天文学」といった多くのことを学び習得する必要があったのです。
そんな忍術を使う者を「忍者」と呼ぶわけなのですが、その起源には多くの説があり、一説には聖徳太子に仕えた大伴細入という人物が「最初の忍者」であるとも言われています。
一般的には、鎌倉時代に荘園の中で発生した「悪党」に由来する伊賀忍者が最初…とも言えるでしょう。
ここでは、そんな忍者のレジェンドたちをまとめてみました。
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藤林長門 (ふじばやし ながと) は、服部半蔵・百地三太夫と並ぶ伊賀の三大上忍の1人です。彼は伊賀忍者の棟梁だったにも関わらず、その事実以外はあまり知られていない謎の人物です。
織田信長による「天正伊賀の乱」によって伊賀及び甲賀の忍者たちは衰退してしまい、この時彼は生き残ったとされていますが、のちに殺害されてしまった…とも言われています。
そんな長門は、後世にとても重要な財産を残してくれました。彼の子孫が、忍者の技術や知識を記した資料「万川集海 (ばんせんしゅうかい) を編集し後世に伝えてくれたのです。
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城戸弥左衛門 (きど やざえもん) は伊賀の出身で、火縄銃 (鉄砲術) に長けたエキスパートとして有名です。失敗はしたものの、織田信長の暗殺を2度も試みたことでも知られています。
伊賀忍者の歴史資料「伊乱記」によれば、弥左衛門のほか2人の忍者が同時に信長を襲撃し従者7人を倒したものの、肝心の信長には逃げられてしまった…と記されています。
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伴資定 (とも すけさだ) は甲賀の上忍で、徳川家康に使えた伴流の頭領です。
資定 (与七郎) は、桶狭間の戦いで織田信長に当主 (今川義元) を討たれた今川家が、それでも諦めきれずに再起を図り堅固していた上ノ郷城を落としました。
城攻めの際に攻めあぐねていた家康は、資定をはじめとする甲賀忍者80人を雇います。資定は、服部半蔵と協力して城に潜入し城を陥落させたのです。
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百地三太夫 (ももち さんだゆう) は伊賀流忍術の創始者の1人で、服部半蔵や藤林長門と共に伊賀三大上忍と呼ばれています。三太夫は、異なる妻や家族と3軒の家を併用し (一夫多妻制)、自身の身が危うくなった際には別の家で別人となり危機を逃れていたそうです。ある意味、これも忍者らしいエピソードの一つですね。
そんな彼は、織田信長が伊賀を侵略した「天正伊賀の乱」で殺害されてしまったと考えられています。この戦いで伊賀と甲賀の忍者たちは一掃されてしまいました。ちなみに、あの有名な石川五右衛門は百地三太夫の弟子だったと言われています。
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霧隠才蔵 (きりがくれ さいぞう) は「架空の忍者」として有名な人物の1人です。「真田十勇士」の中で、ライバルであり友人でもある猿飛佐助に次ぐNo.2として描かれています。
しかしながら、架空ではなく実際に存在していた人物であるとも言われており、歴史上の霧隠は、豊臣秀吉をを床下から槍で突いて暗殺しようとしたことが記録に記されています。
暗殺は失敗し才蔵は捕えられてしまいますが、このことが結果的に二重スパイからの暗殺未遂を防いだ…ということで「豊臣家に一生忠誠を誓う」ことを条件に許されたとされています。
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石川五右衛門 (いしかわ ごえもん) は、お金持ちから金銀財宝を盗み出し、貧しい人たちに分け与えていたとされる無法者です。百地三太夫の弟子だったともされており、その後、関西で盗賊団のリーダーとなりました。
豊臣秀吉の暗殺に失敗して捕らえられ「釜茹での刑」になりましたが、伝説では死ぬ間際まで息子を頭上に持ち上げていたと伝えられています。
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服部半蔵 (はっとり はんぞう) も有名な忍者の1人です。徳川家康の家臣兼サムライで、徳川家統治の推進力になりました。有名な話では、「織田信長が明智光秀に討たれた際、危険な状況下にいた家康を護衛し、伊賀超えで三河まで無事に送り届けた」という話をご存知の方も多いことでしょう。
その後、半蔵の指揮下で伊賀忍者は江戸城の護衛となり、お庭番衆の名で将軍の隠密機関となりました。半蔵が亡くなった後、「服部半蔵は永久に不滅だ」という神話を作るため、後継者たちは「服部半蔵」を名乗り続けていきます。ちなみに、一般的に一番有名な「服部半蔵」は2代目です。
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加藤段蔵 (かとう だんぞう) は、忍者に特殊な能力が備わっていることを周知させた忍者の1人です。彼は、多くの人々が「魔法使いだ」と思っていたほどの奇術師でした。それはたとえば、大衆の前で牛を飲み込んだり、種を投げた瞬間に花が咲くといったものでした。
段蔵は、上杉謙信による忍術の試験で直江兼続から長刀を盗むことに成功し、謙信に仕えるようになります。
ただ、あまりにその技術が優れ過ぎていたため謙信に警戒され、武田信玄に仕えるようになります。
しかしながら信玄にも二重スパイの疑いをかけられ、ついには暗殺されてしまうことに。。。有能すぎた忍者の悲しい末路…といったところでしょうか。
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望月 千代女 (もちづき ちよめ) は有名な「くノ一」 (女) 忍者の1人です。戦国武将・望月信頼の妻でしたが、夫が戦さで亡くなった後、夫の叔父である武田信玄に預けられ、女性工作員の人材募集と訓練を任されました。
千代女が養成した工作員たちはとても重宝されたそうです。
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風魔一党は小田原の北条氏に仕え、伊賀と甲賀から独立して発展したユニークな忍者です。上忍の風魔小太郎 (ふうま こたろう) は5代目が最も有名でした。当時の風魔は、北条の支配下で山賊・海賊・盗賊などとして働く数百人の野武士・野盗たちを束ねていました。
1580年、武田勝頼が小田原を攻めた際、小次郎は武田軍に侵入し武田軍を混乱させ同士討ちを巻き起こしたのです。その後、(残念なことですが) 1590年に北条が豊臣秀吉に滅ぼされてからは普通の盗賊に落ちぶれてしまったそうです。ちなみに風魔小次郎というのは個人名ではなく代々の頭領の名前です。
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川上仁一 (かわかみ じんいち : 1949年生まれ) は甲賀流忍術の伴家忍之伝を受け継ぐ武術家であり忍術研究家です。「最後の忍者」とも言われています。両親は忍者の家系ではなかったものの、6歳の頃に (忍者の家系であった) 石田正蔵と出会ったことで忍術を学ぶこととなります。
石田が手にした物を素早く精確に投げる姿などに感心し、遊びのつもりで真似をしていたのが始まりだったといいます。その後、師弟関係となって訓練が始まります。当時の彼は自分が何をやっているのかわからないままに訓練を受けており、最初は泥棒の術だと思い込んでいたそうです (それが忍術だと知ったのはずいぶん後のこと)。
身体のできていない幼少期は呼吸法に始まり、静かに動く歩法や関節の外し方、視覚や聴覚を研ぎ澄ます訓練など、忍術の基礎を学びます。やがて、成長するにしたがって薬草や火薬の調合といった専門知識などを習得。18歳で石田から宗家の名を継承し「甲賀流伴党21代宗師家」となり、巻物や道具などを授かります。
その後は大手メーカーで技術者として勤務するかたわら鍛錬を続け、退職後は忍術・武術・兵法などの研究と広報を行っています。三重県伊賀市にある「伊賀流忍者博物館」の名誉館長でもあり、三重大学では学術的な忍者研究にも携わっているそうです。
いかがでしたでしょうか。
他にも、(江戸時代後期に活躍した徳川将軍家御庭番であり探検家でもあった) 間宮林蔵さんなども立派な隠密活動を行っており、忍者であったと考えられています。
城に忍び込み、放火をしたり情報収集をしたり、偽の情報を流布したり。。。
こうした活動をするにあたって、火薬の取り扱いに長けていたり変装・体力が優れていたりとマルチな才能を発揮していたのが「忍者」です。
また、ひとくちに「忍者」といっても城を持つまでに出世した者もいたようです。つまり、忍者とは影で暗躍した「忍び」というよりも、「特殊技術を持っていた武装集団」と解釈したほうが良さそうですね。
あなたも現代の「忍者」としてその才能を遺憾なく発揮してみませんか。